夙川聖書教会 秦 賢司 主管牧師の紹介です
秦 賢司(はたけんじ)主管牧師のプロフィール
◎夙川聖書教会主管牧師
◎夙川クリスチャンセンター英会話校長
◎夙川チャーチスクール(SCS)校長
◎リバーサイドチャペル牧師
◎チャペルR2牧師
◎秦牧師の心の相談室主宰
- 神戸大学法学部卒。
- 聖書神学舎(現 聖書宣教会・聖書神学舎)卒。
- 日本教会成長研修所卒。
- 新約釈義・牧会カウンセリングが専門。
- ・大学生時代にアメリカ人宣教師を通してキリスト信仰に導かれ夙川聖書教会へ。
- ・1974年、大学卒業後すぐに東京杉並の神学校、聖書神学舎に入学。
- ・1977年、卒業とともに母教会の夙川聖書教会牧師として赴任、現在に至る。
日本福音主義神学会会員
関西牧会カウンセリングセンター正会員
神戸ルーテル神学校カウンセリング研修修了
淀川キリスト教病院臨床カウンセリング研修修了
日本福音キリスト教会連合(JECA)では神学委員、規約委員、全国宣教協力委員長を歴任。
キリスト教会の全国組織の日本福音同盟(JEA)の宣教委員会委員(2002~2005)を歴任。
・大学4年の時に英検の1級に合格。その後、欧米研修、講演通訳、などの経験が豊かです。
・聖書原典を聖書時代のギリシャ語とヘブル語で講解し、教会で毎週の説教をしています。
・震災時は阪神間約40のキリスト教会の協力する復興ボランティア活動の中心となり働きました。
・現在は阪神間の主要な40教会が協力する阪神宣教祈祷会で奉仕中。
2005年第30回阪神クリスマスフェスティバル実行委員長
2005年阪神宣教協力35周年記念事業委員長
著書「たとい地は揺らぐとも」「お得なクリスチャン」等 約27冊。
編著「苦しみに会ったことは」「主にある者の幸せ」
新讃美歌集:「今ここに主はおられる」ほか16曲を作詞。
「生き方を学ぶ会」講演会を定期的に開催。
全国各地の教会の特別集会の講師として聖書からの様々な講演を実施しています。
震災詩「かなしめるひとのなぐさめに」が2001年の1.17阪神・淡路大震災記念日復興祈念コンサートで最優秀賞を受賞しました。
秦牧師のメッセージ
教会では、聖書を学びたい方、キリスト信仰に入信をご希望の方を始め、牧師による悩み相談、人生相談も随時受け付けています。
ご家庭の悩み、夫婦の悩み、子供に関する悩み、人間関係の悩み、職場での悩み、何でもカウンセリングいたします。
費用は無料、または実費のみです。お電話でお問い合わせ下さい。
0798-72-6055(代)
0798-72-4128(FAX)
日曜日以外は0798-72-6055にお電話ください。
なお、日曜日の礼拝中のお電話は取り次ぐことができません。
2005.1.17 夙川聖書教会 10周年祈念早朝礼拝説教
「地震からの語りかけに答える」 マタイ28:1~10
夙川聖書教会 牧師 秦 賢司
地震について考えるのにも、様々な方面からのとらえ方がある。
地震について、ある人々は回想をする。ある人々は具体的な援助の話やボランティアの話をする。ある人々はカウンセリングや心のケアの話をする。そして、地震の対策として一般の人々が普通に考えるのは、地震で死んだり、けがをしないような、準備の品々や建物の対策や保険のことなどである。
なぜこれほどまでに震災が私自身の心に残っているのだろうか。
それは地震で自分自身が多くのものを一時に失った経験をしたからだと思う。それは、多くの人が突然亡くなられたのを目のあたりに見たからでもある。また、多くの家や道や橋が、また自分の家財道具の数々が様々にこわれて、町も、自分の生活もあとかたもなく変化してしまったからである。これが、「一瞬に」起こった。それでその変化に戸惑った印象が強烈に残っているのだと思う。
しかし、時間の経過とともにこのことも少し冷静に考えられるようになった。
町はどんな時代でも時間がたてば否応なく変化する。人も時間がたてば死ぬ。しかも、人間は交通事故や病気でも死ぬ。人間の平均寿命を言うが、それは、その年齢まで生きられるのが五分五分だということでもある。「長生き」ということに人間は皆価値を見いだしているわけだが、しかし、事故や災害によるむごたらしい死ではなくとも、老いればいずれ人は死ぬ。
私達は、震災を考える際に、けがや死や喪失というところを最も深刻に考えて、次の震災のための備えをしている。
しかし、いつ来るかも知れない、しかも確実に来る死というものへの備えが、信仰を抜きにして本当に皆一人一人正しくきちんとできているのかと思う。むしろ「生きている」、あるいは「生かされている」意味についてもっと真剣に考える必要があるのではないかと思う。被災から来る痛みや死や喪失の回避の努力以前に、「地震」とは私達にとっていったい何なのかというとらえ方が必要なのではないか。目先の驚きや驚異、あるいは地震を「自然災害」という風に無機質なものと考えて、それへの恐怖だけにとらわれていてはいけないのだと思う。むしろ考えてみるべきは、この甚大な影響を及ぼす地震そのものを私達人間が、人生に実際に起きるリアルなできごととして、どのように真正面から理解して受けとめればよいかということではないかと思う。そうすれば、死や喪失、またそこにある痛みにもたしかな意味づけが与えられる。こういう方面の真剣なとらえ方が少ないように思う。それは地震そのものの意味を問わず、地震をただ単に物質的に大災害をもたらすもの、あるいは厭うべきものとしてとらえるところから始めていることに問題の根があると思う。地震の善悪判断が既にかなり断定的に「悪しきもの」となされているところに聖書的な識別を要すると思うのである。
突然の地震で人が死ぬなどというのはたしかに理不尽なことである。
しかし、私達は、この地震という問題を一度しっかりと聖書的に考えてみる必要がある。「地震」そのものはいったいどういう意味があるのか、私達は地震をどうとらえるべきなのか。そして、聖書は果たして地震について何を言っているのかということを。
今回、震災10周年を迎えるにあたって、私自身で新約聖書に出てくるすべての地震とそれに関する語をリストアップして、その一つ一つを学んでみた。(学びは原典ベースで行ない、出てくる数などもすべて原典にでている回数である。)
新約聖書に出る地震という語は、セイスモス「振(震)動」である。
それは14回出ている。しかし、実際に起こった地震の記述は3回であり、もう一回、マタイ8章に出てくる大暴風にもこの言葉が用いられている。聖書はこれを水の上の大地震のように記しており、この事件と他のか所とのつながりの上からも、この件も加えて4回としてもよいと思う。この他には、終末時代の地震の予言にこの語が何度も用いられている。多分、クリスチャン達もこの黙示録の地震の方が頭の中に強く入っているので、地震の持つ「裁き」のような面が強く意識される結果、地震をただ厭うべきものとしてとらえやすいのだと思う。
このセイスモス「振(震)動」から来る動詞セイオー「振(震)動させる」は新約聖書中5回用いられ、この5ヶ所を学ぶだけでもまた重要な学びができる。
別の振動させるという言葉もあり、1つは「サレウオー」(揺り動かす)、もう一つは「トレモー」(震動)である。サレウオー「揺り動かす」は15回出る。トレモー「震える」は3回出る、その名詞のトロモス「震え」が5回用いられている。これは音楽の「トレモロ」という言葉の源になっている言葉である。エントロモスという「震動の中に入る」「震えている」という言葉もこのトレモーの派生語であり、3回出てくる。重要なのはこのような言葉である。
調べてみて、聖書は私達に地震に関してただ抽象的に教えているのではなく、かなり具体的に、また鮮明に、その意味について語っていることが良くわかった。
聖書全体の地震の意味付けについての教えが最も鮮明なのが、マタイ28:1~10のように私には思える。それで、聖書の全体の学びをこの箇所の学びを軸に整理してみたい。そして、それは、私達がこの阪神・淡路大震災をどのように受けとめれば良いかについての聖書からの語りかけを聞く大切な試みである。
新約聖書に出てくる実際に起こった4つの地震(終末の預言にあるものは除いて)というのは下の4つである。
・マタイ8:23~27 (前述したように)湖上の大暴風(大震動)
・マタイ27:51~54 イエスの十字架上の死の時の地震
・マタイ28:1~10 イエスの復活の時の地震
・使徒16:25~34 ピリピでパウロとシラスが牢に入れられた時の地震
そしてもう一つの、使徒4:31も地震の中に入れた方が良いように思う。この「震い動き」は、サレウオー「揺り動かす」で原語が少し違うのであるが、しかし使徒の働き16:26の地震の際に用いられている「揺れ動き」と同じ言葉なので、このか所も地震の内に入れても良いと思う。すると、これも入れて新約の中の実際に起きている地震の記述は5回となる。
聖書は地震がどういう時に起こり、人々がどういう反応したのか、そしてどう反応すべきなのかを語っている。それで、そこから私達は地震への聖書的な応答の仕方を理解することができる。
マタイ28:2は、イエス・キリストの復活の時の大きな地震を記録している。これは、マタイ27:54のイエスが十字架で死んだ時の地震に続いて起きた地震である。十字架の死の時の地震の際、十字架のイエスの見張りをしていたローマの百人隊長は地震と様々な異象を見て、「この方はまことに神の子であった」と思わず告白する。この言葉は彼自身の十分な信仰告白とまでは言えないかも知れないが、しかし、異邦人である百人隊長がこの現象を見て、イエスを神の子であるとしか言えないという風に結論づけたことがまことに意義深いのである。
この地震という語をたよりにマタイ8:23を見ると、この時の「大地震」と表現される「大暴風」の中で、イエスにつき従ってきていた十二弟子達はひどく騒ぎたてて恐れまどっている。
これは彼らがイエスの弟子になってまだ日も浅く、しかもイエスがすばらしい教師であるとは理解していても、まだイエスのご本質に十分気付いていない時である。いつもこの湖で漁師をしていた彼らが、自分達の命にかかわると思うような尋常でない嵐に出会って大きな恐怖の中にいる。しかし、イエスは彼らに「なぜこわがるのか。信仰の薄い者たちだ」と言う。そして起き上がり、風と湖とをしかりつけると大なぎになる。この時に彼らは「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」と疑問に思う。そしてその答が、その次の地震の際、十字架の番をしていたローマ人の百人隊長によって明瞭に答えられていると言えるのである。つまり「この方はまことに神の子であった」と。
イエスがあの湖の嵐の時に未熟な弟子達に対して敢えて言われた「なぜ恐がるのか、信仰の薄い者たちよ」という言葉は、大地震の揺れの恐れに満たされてとまどっている未熟なキリストの弟子達への語りかけの言葉としてとらえると良いだろう。
つまり、大切なポイントは、人は大地震の際に、ただ単に地震を恐がりその現象を恐れあやしむところで終るのではなく、その時に、まことの神に対するしっかりとした信頼というものを問われていると受けとめるべきだということなのである。
既にまことの神を知りイエス・キリストを知って信じている人はその信仰を深めるべきであり、まことの神を知らない人は、天地創造のまことの神を信じる「信仰」についてしっかりと考え始めるべきであろう。それは、揺れ動く難破船の上で、自分の命をつくり支配しておられるお方について必死に考えよと言われているということである。難破船の上ではだれでも神頼みをすることだろう。つまり、その機にあたって正しい神理解をするようにと神に命じられ、そして、まことの救い主イエスについてしっかりと知り、イエスがどういうお方であるかを真剣に考えよ、これがこの大震動の中で語りかけられている中心部分であると言って良いだろう。そういう状況の中で、イエスがどういうお方なのかをはっきりと理解し、そしてイエスにしっかりと心からより頼むなら、たしかに、私たちの心は天的な平安と満足とを味わうことができるのである。これが聖書の教える神の大いなる救いの約束の内実である。
このマタイ28章の冒頭部では、はっきりと2種類の人々、つまりイエスを信じている人々と、イエスに敵対している人々とが登場する。
大地震が起き、御使いが天から降りて来てイエスの墓の石をわきにころがしてその上に座ったというこの事件は、御使いが出現するということで、聖書の中でも特に強調されている印象的な奇跡である。ここでは大地震の震源が神かまたはこの墓を動かした御使いに帰されている。原文では2節の文頭には「すると、見よ」という強調句が入っており、これは神のみわざに注目させる時によく用いられる表現である。(マタイ27:51にもある。)また、理由や根拠を示す接続語も用いられている。またローマの屈強な兵隊の一団が、その御使いを見て恐ろしさのあまり「ふるえあがった」という。この「ふるえあがる」も前述の「セイオー(震動させる)」である。そしてマタイ27:51のイエスの死の際にも「地が揺れ動き」とあり全く同じ原語が出ている。つまり、地震は「地」も「人々の心」も「揺すぶっている」と聖書は語っているのである。この時恐れ驚いた彼らは死人のようになったという。彼らは腰を抜かして倒れ伏したのかも知れない。それほどの衝撃的事件だったのである。これは御使いとそのみわざを見て神のみわざを体験した恐れである。
この際の御使いの言葉が興味深い。この御使いはイエスの弟子である女たちには「恐れてはいけません」と言うのである。
直訳は「あなた方は恐れるな」である。ここでも非常にはっきりと人々は二つに区別されている。そして、イエスを既に信じている人に対しては、「恐れるな」と言うのである。つまり、地震は神の重要な語りかけの手段の一部であり、それは神が意図的に起こしておられるのであって、その地震によって神が指し示しておられる重要な真理、神のなしておられる特別重要なみわざの方に私たちが目を向けることがたいへん大切なのである。その重要点というのは、イエスの十字架とそのあとに続く復活で、それがたいへん重要なので、神はわざわざ地震を二度重ねてまで起こして、その重要性と、そこにあるすばらしい神の祝福を教えているのである。だから地震というものは、ただ一般的に恐ろしいと厭うべきものでなく、同時に、それは神の祝福をその大きな衝撃によって人々に伝えて、信仰者には信仰の重要ポイントを自覚させ、さらには信仰の目が十分開いていない人々には信仰を覚醒するための神の語りかけでもあると言えるのである。私達は地震という事実に畏れおののきつつも、それが指し示すところの神の重要な霊的なメッセージをしっかりと聞き、神がその際に教え導いておられるところにしっかりと進んで行って確固として立つべきなのである。
聖書は明らかに地震が持つ祝福も語っている。
使徒4:31は地震の肯定的な面を教える代表的な例の一つである。迫害にもめげずに、ペテロやヨハネがイエスの福音を大胆に語り伝道しようとし、神に向かって「大胆に語らせてください」と祈り「主イエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせて下さい」と祈り願うと、「その集まっていた場所が震い動」いたという。これも地震なのである。これは、全能の神からの「あなた方は祝福されている。あなた方の信仰はすばらしい。私はあなた方とともにいる。私はあなた方を守り私のみわざを豊かにあらわす。」というようなお励ましの震動である。ここでは、神が人々の祈りに答えて豊かなみわざをあらわすというお約束を与えて下さっている。これはそういう聖霊の満たしを伴った地震である。この地震は、地震のそういう祝福の極みを、また地震に聖霊のみわざが伴っているということをはっきりと教えている。
そしてもう一箇所。使徒の16:26を見ると、これは、マケドニヤに入って最初の伝道をしたピリピで、占いの霊につかれた女奴隷から悪霊を追い出した際に起きた事件である。
彼女に占いをさせていた人々からかえって迫害を受けて、パウロとシラスが牢に入れられた事件である。これは十分な裁判もないまま笞打たれて牢に入れられるという、痛みの伴った理不尽な迫害であった。しかし彼らは真夜中にその牢の中で神に祈って賛美の歌を歌っていた。これは彼らの非常に熱心な祈りと信仰の告白である。すると、突然大地震が起こったのである。
これは明らかに彼らを解放するための地震である。獄舎の土台が揺れ動いてたちまち扉が全部開き、みなの鎖が解けたという。この地震は、まことの神を伝える人々を捕えていた人々に対しては神からの怒りの警告である。そして、それとともにもう一方では、神のしもべであるパウロとシラスにとっては解放の地震である。この地震も、神を信じる者にとっては肯定的な意味で祝福として起こっている地震と言って良い。
そして、このとき、さらに劇的なことが起こる。つまり、囚人を逃がすとその刑を自分が負わねばならない看守が責任を感じて自殺しようとする。
それを、パウロが囚人達を掌握して彼の自殺を救う。そこから、事態の一大転換がはじまる。つまり、この看守は駆け込んできて、自殺を思いとどまっただけでなく、そこにいるパウロやシラスに何か異常とも思える力を感じたのだろう、彼らにひれ伏して「救われるためには何をしなければなりませんか」と尋ねたのである。そこでパウロは「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」と言う。これこそ地震が人々に指し示しているメッセージの中核部である。そして、このメッセージに答えて看守は信仰を持ち、彼は救われたのである。それはまた、彼の罪に満ちた古い生き方からの解放である。この地震は神の器であるパウロとシラスを牢から解放しただけでなく、未信者である看守とその家族をゆさぶり、神にそむく罪の生活から彼らを救い出すという霊的解放も起こしたのである。
この使徒16:21を決定的に裏付けまた説明しているのがマタイ28:5~7であろう。
このか所で御使いは、「恐れてはいけません」と言ってから、「あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。」と言う。そして、「来て、納めてあった場所をごらんなさい」と命じる。御使いは空の墓を見せて、それがイエスの復活の証拠であると教え、さらに、ガリラヤに行くと復活のイエスに会えると言う。そして結局、弟子達はその後実際に何度も復活のからだを持った主にお会いする。その記録と証言が四つの福音書やパウロ書簡に出てくる。つまり聖書は、イエスが神であり救い主であるということをこの「復活」という証拠で決定づけ、イエスに従い始めている者達に対して信仰の確信をはっきりと持つようにと、この復活の事実とそれに伴う衝撃的な地震とで促しているのである。他の箇所を学ぶことによってもわかるが、地震は人々の中からイエスを信じる者をはっきりと浮かび上がらせる作用をするのである。つまり、彼らにはっきりと信仰を持つように強く促すのである。信仰を持っていない者には持つようにと。信仰を既に持つ者にははっきりと持つようにと。そしてさらに彼らに、その信仰の確信を豊かに与えようとする。そして、十字架と復活をはっきりと信じる者は、地震を通して大きな霊的な祝福と益を受けることができているのである。
私達の実際の生活の中で地震が起こった時には、あの看守のような、まだ信仰を持っていない状態の人もいるだろう。
また、イエスについて十分知らない人々はその時にはただ恐れてだけいることだろう。しかし、そういう人に対するイエスの招き、神のことばの語りかけははっきりしている。それは、この地震を機会にしてイエスをはっきりと神の子、救い主と信じよ。そしてそれゆえに恐れるなと言うものである。そこであなたが、イエスを救い主と信じ始め、そのイエスを信じる信仰をもった上で地震の意味や意義を探ってゆくなら、あなたは地震が私達を解放しまた信仰の確信を持たせるための神のみわざであることがたしかにわかってくるのである。
では実際これは何からの解放なのか。
ピリピの牢獄の束縛からの解放にあたるものは、今の私達にとっていったい何を意味するのか。それは、この世の生活にどっぷりとつかって、この世の生活に慣れ親しみ、この世の繁栄を求め、モノ、カネ、地位、名声、あるいは占い、また願望成就の願いづけになっていた私達を、そのようなこの世の力の束縛や自己中心や虚栄心のドロ沼から解放してくださる解放である。神は私達がひとたび救われたその後も一歩一歩、さらに日ごとに私達を整えて豊かに守り導いて下さる。私達は神に感謝をささげつつ、信仰生活を成長させていただく。そして、次第に、地震ですぐにこわれてしまうようなもののためにではなく、永遠に残るもののためにもっと働くようになる。そして、主を信じる者同士の愛と恵みに満ちた共同体である教会の交わりの祝福にもあずかる。また、キリストをあかしして生きる者ともなってゆく。私達は十字架と復活の福音を信じるだけでなく、それをしっかりと伝えて、もはや揺るがされることのない来たるべきまことの天国の生活にこの地上から備えるのである。それは、罪に満ちたこの世の生活をはっきりと悔改め、神のみこころにかなった信仰に満ちた生活の中にはっきりと歩を進めることである。
実は、地震という言葉自体が実際に一番たくさん出てくるのは聖書の最後の書物、黙示録なのである。
ここには、この世の終りにたくさんの地震が起こることが書かれている。これは何のために起こるのか。それは神を信じずに自分勝手に生きている人々の上に裁きとして起こるのである。そして、その一方で、そのことを経験することを通してその人々が神に向かって悔い改めることが促されている。しかし、この天地はそのたび重なる地震だけで完全に終るのではない。この世の最後に神はすべてを滅ぼし尽くして新しい天と地をおつくりになる。そしてイエスをはっきりと信じて救われた者は、震災がない永遠の御国、新天新地に行くのである。この地上での震災や、震災のごとき終末の時代を通らされることを通して、私達は罪深い自己中心の生き方から天国にふさわしい生き方へと、悔い改めを繰り返しつつさらに脱皮しつづけてゆかねばならないのである。この世のものばかり求める生活から、しだいにこの世のものを脱ぎ捨てる生活へ。天に宝をたくわえ、神の力、神の助け、神の導きと祝福とに全く委ねる生き方へと進むのである。それが天国の生活だからである。震災による様々なものの破壊や喪失は、神のみこころから考えると全く意味が違ってくる。それは天国の生活への招きであり、この地上の朽ち果ててゆくモノに執着している私達へのおごそかな警告であると受けとるべきであろう。神のしもべ達はここに神の深いみこころを覚えてそれを神への賛美を感謝に変えてゆかなければならないのである。そして、このようなことは、震災のような「災い」に会った者自身が自ら洞察して始める必要がある。そういう「災い」を経験していない者はそれを権威を持って語ることに恐れを感じるからである。
ピリピ2:12では「私のいない今はなおさら、恐れおののいて(トロモス:震え:名詞)自分の救いの達成に努めなさい。」とある。
今後は自分から進んで、神の前での「恐れ」と「震え」とをもって、聖霊に満たされたゆえの自発的な熱心から自分の救いを達成するように努めることを私達は命じられているのである。
地震は、あなたに向かって「十字架と復活のイエス・キリストを信じる信仰をこの機会にはっきり持ちなさい。あなたはもうはっきりと救われましたか」ということを切に問いかけているものであることが、おわかりいただけただろうか。そしてこの迫力あふれる神よりの問いかけ、大きな揺さぶられる経験の中で、あなたが祈りと願いと叫びをもって恐れおののきつつ主イエスに近づくことこそ大切なのである。イエスはあなたに助けと平安と守りをお与えくださる。あなたにはそれを味わうチャンスが与えられている。しかし、もしあなたがこのことを、あの復活の際の墓番の兵士たちのように、ただ恐れただけで、気味悪がるばかりで、何の応答もせずにいるならば、また、何らかの別の理由をつけてイエスを救い主とはっきりと信じないままにいるなら、あなたはさらに大きな破壊的な揺れに遭遇することだろう。それはこの地上での悲惨な終末的な地震の数々に出会うことでもあるだろう。そしてまたそれは、最後の審判という、新天新地に入る際に人を選別する大いなる激震との遭遇でもあろう。しかし、もしこの地上であなたが、神より賜わる具体的な地震をきっかけに、ある時はっきりと悔い改めて神を信じ、救い主イエスを受け入れ、この揺さぶられたことをきっかけに自分の信仰を向上させ、ますます神により頼み、神にしっかりと委ねる生活を進んで行なうようになったのならば、あなたは次の地震にも、また終末的な地震にもこの世の終りの審判にも十分用意ができたといえよう。
この堅固な信仰によって、この世への断ち難い未練はしだいになくなってゆく。
またこの地上を生きるにしても、実際の震災経験を経るならば、そうたくさんのモノが実生活に必要でないことにも気付く。多くの持ち物は震災の中を生き通すためにはむしろ妨げにもまた私達の上に倒れかかって来る凶器にもなるのである。私達は悔い改めた結果、天に宝をたくわえるために、また神の国ために、自分の時も財も持ち物も賜物も時間もみこころにかなって用いようと思うようになる。自らの身も財も時間もささげてボランティアをする思いにもなる。それが自然な生き方になり、それがますます喜びとなる。するとあなたはもう、生きながら天国にいるのと同じである。あなたは教会の兄弟姉妹の交わりにもきっと豊かに恵まれることだろう。そして、この地上で幸せになるということが本当の意味でどういうことなのかを十分理解することだろう。あなたは本物の人生をこの地上で豊かに味わう、まことの神の器として整えられるのである。そういうことを実際に経験してゆくならば、あなたもあの旧約の聖徒が詩篇119:71で語ったことが真実であると、喜んでともに告白することがきっとできることだろう。
「苦しみに会ったことは私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」と。

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