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このページの内容は
「新讃美歌集:今ここに主はおられる」
☆人生における錯覚・・・その一、その二
2005.1.17 夙川聖書教会 10周年祈念早朝礼拝説教「地震からの語りかけに答える」
「子育ての極意」
「新讃美歌集:今ここに主はおられる」の歌詞です、ご感想をお聞かせください。
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「新讃美歌集:今ここに主はおられる」
1 主のみちびきは
1
2 悩める人はみな
2
3 私をあなたの
3
4 わたしのいたみは
4
5 今ここに主はおられる
5
6 神はめぐみを教えるため
6
7 主よわたしの手をとって
7
8 いやしぬしキリストよ
8
9 キリストは変える
9
10 やめる時もすこやかな時も
10
11 安らかに生きたいなら
11
12 道に迷い疲れ果てて
12
13 救われるためには
13
14 キリストを信じたら
14
15 主は約したもう
15
16 かなしめるひとのなぐさめに
16
1 主のみちびきは
主のみちびきは
ひかりのように
私の足もとを一歩一歩照らす
私も一歩一歩進むごとに
主のそなえと恵みを知る
主のみちびきは
御声によって
私の道すじにその場その場たまわる
私も一歩一歩進むごとに
主のみ知恵と恵みを知る
主のみちびきは
みたまによって
私のせいかつを一つ一つうながす
私も一歩一歩進むごとに
主のみわざと恵みを知る
主のみちびきは
みこころにより
私のせいかつを日ごと日ごとはげます
私も一歩一歩進むごとに
主の御国の豊かさを知る
2 悩める人はみな
悩める人はみなキリストにゆこう
キリストはあなたにみわざをなしたもう
悩みは感謝と喜びに変わる
苦しむ人はみなキリストにゆこう
キリストはあなたにみわざをなしたもう
苦しみは賛美と希望に変わる
悲しむ人はみなキリストにゆこう
キリストはあなたにみわざをなしたもう
悲しみは安らぎと力に変わる
迷う人はみなキリストにゆこう
キリストはあなたにみわざをなしたもう
迷いは祈りと確信に変わる
3 私をあなたの
私の救いはキリストにある
十字架につけられたキリストにある
私の祈りをキリストにささげます
私をあなたのしもべにしてください
私の思いはキリストにある
十字架で死なれたキリストにある
私の心をキリストにささげます
私をあなたのでしにしてください
私の願いはキリストにある
十字架をしのばれたキリストにある
私のからだをキリストにささげます
私をあなたのうつわにしてください
私の誇りはキリストにある
十字架を越えられたキリストにある
私のすべてをキリストにささげます
私をあなたのひかりにしてください
私の愛はキリストにある
十字架をとげられたキリストにある
私のいのちをキリストにささげます
私をあなたのかがやきにしてください
4 わたしのいたみは
わたしのいたみは
キリストのいたみ
じゅうじかにつけられた
キリストのいたみ
主よこのいたみを
あなたのちからで
とりさってください
みめぐみによって
わたしのいたみは
キリストのいたみ
十字架のくるしみを
しのばれたいたみ
主よこのいたみを
やわらげてください
あなたのくるしみを
おもうことによって
わたしのいたみは
キリストのめぐみ
十字架につけられた
キリストのめぐみ
主よこのいたみを
いやしてください
死に打ち勝たれた
みちからによって
わたしのいたみは
キリストのいたみ
ひとをあいした
キリストのいたみ
主よこのいたみを
しゅくふくしてください
あなたのごあいに
いきられるように
5 今ここに主はおられる
今ここに主はおられる
御傷しめして
私は痛んだ
あなたのために
あなたも痛みをしのぶはずだ
今ここに主はおられる
御足しめして
私は痛んだ
あなたのために
あなたも仕えて、苦しむはずだ
今ここに主はおられる
御胸しめして
私は痛んだ
あなたのために
あなたもこころが傷つくはずだ
今ここに主はおられる
みかしらしめして
私は痛んだ
あなたのために
あなたのかむりもいばらのかんむり
今ここに主はおられる
御手をしめして
私は痛んだ
あなたのために
あなたも十字架をしのぶはずだ
今ここに主はおられる
み墓しめして
私は痛んだ
あなたのために
あなたも活かされ喜び満ちる
今ここに主はおられる
みそらしめして
私は痛んだ
あなたのために
あなたのゆくては永遠のいのち
6 神はめぐみを教えるため
神はめぐみを教えるため
わたしにつらさを与えたもう
私がこの世で神を忘れ
滅びのみちにとどまらせぬため
神はめぐみを教えるため
わたしに苦しみを与えたもう
わたしがこの世で高ぶって
人の苦しみに目をつぶらぬため
神はめぐみを教えるため
わたしにいたみを与えたもう
私がこの世でへりくだり
神にゆだねてあゆませるため
神はめぐみを教えるため
わたしにこどくを与えたもう
私がこの世でしずまって
神のたすけをまなばせるため
7 主よわたしの手をとって
主よわたしの手をとって
導いてください
私がやみの中を歩むとき
たおれてしまうことがないように
主よわたしの手をとって
導いてください
私がいたみ苦しむとき
みこころの道を外すことがないように
主よわたしの手をとって
導いてください
私が道に悩めるとき
ひと足ひと足
かたく歩めるように
主よわたしの手をとって
導いてください
私があわてふためくとき
じゅうじかの道を選ぶことができるように
主よわたしの手をとって
導いてください
私がいまわの床に伏すとき
かがやくみくにに入ることができるように
8 いやしぬしキリストよ
いやしぬしキリストよ
わたしのやまいをいやしてください
わたしのこころとからだのすべてで
あなたのちからをしめしてください
いやしぬしキリストよ
わたしのいたみをとりさってください
わたしのこころの思いのすべてで
あなたのめぐみをおもえるように
いやしぬしキリストよ
わたしのこころをいやしてください
わたしがこころといのちのすべてで
あなたのいやしをかたれるように
いやしぬしキリストよ
わたしのおもいをいやしてください
わたしのこころが主のみこころを
しっかりとらえてはなさぬように
いやしぬしキリストよ
わたしのれいをいやしてください
せいれいによってわたしをみたして
まことのみこころもとめるように
9 キリストは変える
キリストはかえる
しゅくふくにかえる
わたしのいたみを
しゅくふくにかえる
わたしにいのるよう
はげますことにより
キリストはかえる
しゅくふくにかえる
わたしのいたみを
しゅくふくにかえる
わたしがもとめを
ただすことによって
キリストはかえる
しゅくふくにかえる
わたしのいたみを
しゅくふくにかえる
わたしがかんしゃに
みちびかれることで
キリストはかえる
しゅくふくにかえる
わたしのいたみを
しゅくふくにかえる
わたしがすべてを
喜ぶことによって
キリストはかえる
しゅくふくにかえる
わたしのいたみを
しゅくふくにかえる
わたしのこころを
みたすことによって
キリストはかえる
しゅくふくにかえる
わたしのいたみを
しゅくふくにかえる
わたしがみくにに
入れられるときに
10 やめる時もすこやかな時も
やめる時も すこやかな時も
ともに祈り信じよう
キリストのみわざを
主はすべての悩みをとり去りたもう
やめる時も すこやかな時も
ともに歌い信じよう
キリストのみわざを
主はすべての重荷をとり去りたもう
やめる時も すこやかな時も
ともに喜び信じよう
キリストのみわざを
主はすべての痛みをとり去りたもう
やめる時も すこやかな時も
ともに感謝し信じよう
キリストのみわざを
主はすべての苦しみをとり去りたもう
やめる時も すこやかな時も
ともに信じ委ねよう
キリストのみわざに
主はすべてを益にかえてくださる
11 安らかに生きたいなら
安らかに生きたいなら
主によりたのもう
主に委ねるなら
平安がみなぎる
みちたりて生きたいなら
主によりたのもう
主に任せるなら
聖霊にあふれる
しっかりと生きたいなら
主によりたのもう
主を受け入れるなら
確信がわき出る
愛に生きたいなら
主によりたのもう
主の愛を知るなら
喜びがあふれる
12 道に迷い疲れ果てて
みちにまよいつかれはてて
目を上げれば
そこに主のきよいみ手が
われを招く
私のことばに聞きしたがえと
心にひびく主のみこえが
みちにまよいつかれはてて
目を上げれば
そこに主のきよいみこえ
われを招く
私のことばに聞きしたがえと
耳にひびく主のみこえが
みちにまよいつかれはてて
目を上げれば
そこに主のきよいまなざし
われを招く
私のことばに聞きしたがえと
胸にひびく主のみこえが
みちにまよいつかれはてて
目を上げれば
そこで主のきよいうでが
われをいだく
私のことばに聞きしたがえと
魂にひびく主のみこえが
13 救われるためには
(伝道の歌)
救われるためには
神の愛を知ろう
私たちをつくり 私たちを愛し
みことばをくださった主の愛を知ろう
救われるためには
自分の罪も知ろう
神に背を向けて 罪を犯した
主の裁きの中にいる自分を知ろう
救われるためには
主のみわざを知ろう
十字架で死なれて よみがえられた
救い主キリストのみわざを知ろう
救われるためには
キリストを信じよう
私のために死んで よみがえられた
罪からのあがないを信じ受け入れよう
救われるためには
キリストを受け入れよう
心の戸をたたく キリストに答えよう
罪を言いあらわして喜び生きよう
14 キリストを信じたら
(信仰生活の歌)
キリストを信じたら
新しいいのちが始まる
聖霊が入って下さり新しくされる
みことばにはぐくまれて
このいのちを生きよう
キリストを信じたら
新しいいのちが始まる
聖霊が入って下さり新しくされる
ひごと祈りをささげつつ
このいのちを生きよう
キリストを信じたら
新しいいのちが始まる
聖霊が入って下さり新しくされる
教会のまじわりで
このいのちを生きよう
キリストを信じたら
新しいいのちが始まる
聖霊が入って下さり新しくされる
キリストをあかししつつ
感謝して生きよう
キリストを信じたら
新しいいのちが始まる
聖霊が入って下さり新しくされる
みこころを求め委ねて
このいのちを生きよう
15 主は約したもう
(成長の歌)
主は約したもう
私をいやすと
私をあがない 私を救い
私の心をただしてくださる
主は約したもう
私を変えると
私を救い 私を導き
私の思いをただしてくださる
主は約したもう
私を満たすと
私を導き 私を整え
私のめあてをただしてくださる
主は約したもう
私を恵むと
私を整え 私を恵み
私のいのちをただしてくださる
主は約したもう
私を救うと
私を恵み 私を引き上げ
私を御国に入れてくださる
16 かなしめるひとのなぐさめに
あのみち
あのやね
あのひと
こころのなかにのこるまち
わすれられないあのとき
あのあさ
あのおと
あのひかり
からだのなかにのこるゆれ
わすれられないあの日々
みなゆれ
みなきえ
みなさって
のぞみだけはといだきつつ
たどりたどったこの日まで
ただしんじ
ただゆめみ
ただ立って
まもられつづけあゆんでた
はぐくまれつつこの日まで
いのりつつ
さけびつつ
ゆだねつつ
かなしみのこころ知らされ
なぐさめのみちも知らされ
むねのうち
いくたびも
くりかえす
たえられぬこころみはなし
かなしみはよろこびにかわらん
このまなび
このこころ
これからは
かなしめるひとのなぐさめに
飢えしひとびとのてだすけに
とこしえに
のこるもの
めざしつつ
かがやきのあふる生きかたへ
よろこびのあふるあしたへと
(二〇〇一年一月一七日震災復興記念コンサート優秀賞(一位)受賞作品)
最近書いた文章を二つ載せます、ご感想をお聞かせください。 scc@msg.biglobe.ne.jp
☆人生における錯覚・・・その一「健康こそすべてだ」
「神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(ヘブル人への手紙12章7節、11節)
私たちは健康をとても大切に考える社会に住んでいます。健康の増進をはかり、健康の保持に注意し、そして、健康のために様々なことを考えて行なう。つまり、健康でないと色々なことができないと強く言われ、健康を失うことによって様々な不都合が起きるから、健康こそ何にも増して大切なものであると。もうこれは真理のように思われています。
それで、私たちは健康を失うことを恐れ、病気に遭うことを恐れ、事故を恐れます。健康を失ったところには、まるで何も良いものがないかのように思います。また、痛みや苦しみに遭うことを恐れます。そういうものが私たちに全く無益であるかのように思われるからです。
果たしてそうなのでしょうか。私たちは一度立ち止まってこのことを考えてみるべきだと思います。それは、私たちが人生の大切なことを学び、間違った道から方向を転換させられ、健全に成長する大きなきっかけとなるのは、思いがけない事故、病気、苦しみを通った時ではないのか。私は自分の様々な体験からそう思うのです。
自分が痛みに遭うまで、私たちは他の人の痛みが十分にわかりません。また、自分が苦しみに遭って、やっと苦しみの中にいる他の人の心がいくらかでもわかるようになってくる。それが「健康な」私たちの思ってもみなかった死角であったことを、私たちは思いがけず体験します。自分が様々な形で人生の苦しみに出会うことは、また、様々な形で、生きることの深さ、豊かさ、また奥行きの広さを知ることでもあります。困難や苦痛に出会うことは、ともすれば平板で浅はかになりがちな「健康しか知らない私」を、自分や他人の心の陰影を理解する深みのある人間にしてくれます。
深い人間性を持ち、そして思いがけない問題にも打ちひしがれることなく人生の年輪をしっかりと刻んでゆこうと願うなら、このような苦痛や困難がどこを源にして発しているのかということをしっかりと捉える必要があります。それは、万物のまことの創造主であり、今も生きて働いておられる全能者である神が、このようなことが私たちに起こることを許し、私たちを正しく整えようとしておられるところから来ているのです。私たちはそれが人生の祝福の一部であると受けとめるわきまえを求められているのです。
私たちは私たちの人生に与えられる苦痛や困難を、自分勝手にそれが「悪」であると即座に判断することに慎重さを求められているのです。聖書は、神が私たちにいつも「良きもの」をお与え下さっていると受け取る必要があることを教えています(1テモテ4:4)。一見難しいことかも知れません。しかし、苦痛も苦労も困難をも、私たちは神の御手よりのものとして受けつつ、治療もしながら黙々と耐え、そしてその中で神に向かって誠実にこのように問うようにするのです。「神よ。あなたが愛と善の神ならば、私にどうしてこのような苦しみをお与えになるのですか」と。この深い叫びを持って神の前に出る魂に、神は真実に答えて下さいます。あなたは、あなたのために苦しんで死んでよみがえられたイエス・キリストがあなたを導き救って下さるということを、聖書により、聖霊により、以前よりももっとよくおわかりになって来られることでしょう。
そしてあなたは知るでしょう。あなたが経験した苦痛や困難こそ、あなたへの神からのまことの救いのみわざへの招きであったことを。そして、あなたは納得するでしょう。父や母のしつけや訓練が当座は喜ばしいものではなくても、のちになれば、その教えや訓練の意味がはっきりとわかり喜べるように、あなたが神の豊かな愛のみわざの中に生かされていることを。
悲しみや苦しみの中にあなたは今おられるでしょうか。失意落胆する必要はありません。いや、むしろ、神はあなたを豊かに愛し、神の大きな永遠の救いの恵みのみわざを、今あなたに起こしておられるのです。神に向かって祈り、そして、ますます主イエス・キリストを知りましょう。これはあなたの霊の目が開かれる産みの苦しみの時であることを深く覚えましょう。
☆人生における錯覚・・・その二「死んだら終りだ」
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じるものは、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネの福音書11章25、26節)
私たちはあいさつでよく「お元気で」と言います。これは「事故や病気に遭わずにご健康で」と言うとともに、「死なないようにしましょう」と言っているように思います。健康を損ねることを恐れる私たち。それは病気を恐れるとともに究極的には「死」をも恐れているということではないでしょうか。
なぜ死が恐ろしく感じられるのでしょうか。それは、死が、だれもその先を知らない未知の世界だからでしょう。そして、死後の世界を恐れるのにはさらに理由があると思います。それは死後を考えることそのものが様々な恐ろしい空想を私たちにもたらすからでしょう。私はある時、今考えているこの自分自身が全く存在しなくなるということをまじめに想像してみました。そしてそのことに深い空虚感を感じざるを得ませんでした。自分の存在が、この考えている心も含めて全く消滅してしまうことを深く考えるのは、不思議に恐ろしく、また本当に空しい思いのすることでもあります。
人間が死を恐れるのは、私たちの魂が死の後も存在することをある程度自覚しているので、死後の裁きを恐れるからであるとも言われます。死んですべてがさっぱりと終るなら、この地上では、生きたいように生きるだけです。ところが、この地上でていねいに正しく生きようとしないなら、良心も痛み、様々な問題が起こり、また問題に巻き込まれ、人間関係がうまくいかないだけでなく、自分自身の生活の隅々まで、心の中まで混乱しだします。私たちは、あたかも細かいところまで神の裁きがあるかのように思って生きると丁度良いかのような人生を生きているのです。
しかし、自分の周辺だけを見ていると、この正義も正しい裁きもきちんと行なわれているようには思えません。死後の世界についても、多くの人はそれがあるのかないのかどっちつかずの、実にあいまいな考え方なので、そのあいまいさのゆえに、人生が不可解にも思え、心の病が増え、その結果思わぬ行動を起こす人が次々と出てきているのだと私は思います。
とりあえず目に見えるものばかりを信じている現代の私たちは、いのちがどこまで続いているのかを十分に理解していません。自殺が増えているのも同じ理屈からだと思います。死が最終的な問題解決だととっさに思い込んでしまうので、また、とりあえずこの苦しみからは逃れられるとは思えるので、何か割り切れない終り方で人生の終りを自分で勝手に決めてしまうのではないでしょうか。「死んだら終わり」というのは本当なのかという検討を、私たちはもっと真剣にすべきだと思います。ここがわからないので、人生もいのちの意味もわからないのです。
歴史上ただ一人、はっきりと死よりよみがえり、弟子達の前に四十日間復活の姿で現われて教え語ったのち昇天された「イエス・・キリストの復活の事実」をあなたは知るべきです。そして、私たちのこの地上の生涯は、聖書が教えているように、神の前にことごとく記録されていて、私たちはその行ないに応じて裁きを受けるということも知るべきです。さらに、イエス・・キリストの十字架による身代わりを信じる者は裁きを免れられるということも。キリストを信じてこの世を生活し、その信仰を全うして死ぬ者は永遠のいのちを持って復活し、神のつくられた新しい御国で神に仕えて永遠に生きるということも知らねばなりません。
私たちはこの地上の人生が終わって死んでそのまま絶滅するのではありません。その先がある事を聖書は明瞭に教えています。イエス・・キリストを信じる者はイエスを信じたその日から救われ、永遠のいのちの歩みを始めます。その人にとってこの肉体の死は、この地上を去って栄光あふれる神の国、天国の永遠のいのちに入れられるという祝福にあずかることなのです。このような確信の上に立った堅実な人生をだれでも送ることができます。このような、光りあふれる死生観を持つ人にあなたもなることができます。「イエス・・キリストの復活」という抗する事のできない歴史的事実をもっと深くお知りになるところに鍵があるのです。
「子育ての極意」という本を書きました。このページに下の方で一部ご紹介しましょう。
(教会内出版の当教会で用いる教材ですが、ご希望の方には、お得なクリスチャン同様、1000円(送料別)でお分けできます。
39の部分に分かれ、本はB5版で82ページです。約10万5千字で、お得なクリスチャンとそう変わりません。)
下記は昨年(2005年)1月17日の夙川聖書教会の早朝祈念礼拝の説教を文章化したものです。
大震災、大災害をどう受け止めたらよいのかのヒントにもなると思います。
少し長いかも知れませんが、大切な内容ですので、できればプリントしてじっくりお読みいただければ幸いです。
なおこの文章は、昨年、私が発行責任者である「主にある者の幸せ」という阪神宣教祈祷会の記念誌の最後に掲載し、
何人かの牧師達の大変強いご支持の反響もいただきました。
聖書を神の言葉と信じるキリスト教会の、基本的な考えと理解されてもそう問題ないと思います。
毎年説教内容は違い、2006年の祈念集会でも、また別の説教がなされます。
早朝にもかかわらずたくさんの参加者がお越しになられます。
場所はリバーサイドチャペルで、早朝のため遅刻しても構いません。
2005.1.17 夙川聖書教会 10周年祈念早朝礼拝説教
「地震からの語りかけに答える」 マタイ28:1〜10
夙川聖書教会 牧師 秦 賢司
地震について考えるのにも、様々な方面からのとらえ方がある。地震について、ある人々は回想をする。ある人々は具体的な援助の話やボランティアの話をする。ある人々はカウンセリングや心のケアの話をする。そして、地震の対策として一般の人々が普通に考えるのは、地震で死んだり、けがをしないような、準備の品々や建物の対策や保険のことなどである。
なぜこれほどまでに震災が私自身の心に残っているのだろうか。それは地震で自分自身が多くのものを一時に失った経験をしたからだと思う。それは、多くの人が突然亡くなられたのを目のあたりに見たからでもある。また、多くの家や道や橋が、また自分の家財道具の数々が様々にこわれて、町も、自分の生活もあとかたもなく変化してしまったからである。これが、「一瞬に」起こった。それでその変化に戸惑った印象が強烈に残っているのだと思う。
しかし、時間の経過とともにこのことも少し冷静に考えられるようになった。町はどんな時代でも時間がたてば否応なく変化する。人も時間がたてば死ぬ。しかも、人間は交通事故や病気でも死ぬ。人間の平均寿命を言うが、それは、その年齢まで生きられるのが五分五分だということでもある。「長生き」ということに人間は皆価値を見いだしているわけだが、しかし、事故や災害によるむごたらしい死ではなくとも、老いればいずれ人は死ぬ。
私達は、震災を考える際に、けがや死や喪失というところを最も深刻に考えて、次の震災のための備えをしている。しかし、いつ来るかも知れない、しかも確実に来る死というものへの備えが、信仰を抜きにして本当に皆一人一人正しくきちんとできているのかと思う。むしろ「生きている」、あるいは「生かされている」意味についてもっと真剣に考える必要があるのではないかと思う。被災から来る痛みや死や喪失の回避の努力以前に、「地震」とは私達にとっていったい何なのかというとらえ方が必要なのではないか。目先の驚きや驚異、あるいは地震を「自然災害」という風に無機質なものと考えて、それへの恐怖だけにとらわれていてはいけないのだと思う。むしろ考えてみるべきは、この甚大な影響を及ぼす地震そのものを私達人間が、人生に実際に起きるリアルなできごととして、どのように真正面から理解して受けとめればよいかということではないかと思う。そうすれば、死や喪失、またそこにある痛みにもたしかな意味づけが与えられる。こういう方面の真剣なとらえ方が少ないように思う。それは地震そのものの意味を問わず、地震をただ単に物質的に大災害をもたらすもの、あるいは厭うべきものとしてとらえるところから始めていることに問題の根があると思う。地震の善悪判断が既にかなり断定的に「悪しきもの」となされているところに聖書的な識別を要すると思うのである。
突然の地震で人が死ぬなどというのはたしかに理不尽なことである。しかし、私達は、この地震という問題を一度しっかりと聖書的に考えてみる必要がある。「地震」そのものはいったいどういう意味があるのか、私達は地震をどうとらえるべきなのか。そして、聖書は果たして地震について何を言っているのかということを。
今回、震災10周年を迎えるにあたって、私自身で新約聖書に出てくるすべての地震とそれに関する語をリストアップして、その一つ一つを学んでみた。(学びは原典ベースで行ない、出てくる数などもすべて原典にでている回数である。)
新約聖書に出る地震という語は、セイスモス「振(震)動」である。それは14回出ている。しかし、実際に起こった地震の記述は3回であり、もう一回、マタイ8章に出てくる大暴風にもこの言葉が用いられている。聖書はこれを水の上の大地震のように記しており、この事件と他のか所とのつながりの上からも、この件も加えて4回としてもよいと思う。この他には、終末時代の地震の予言にこの語が何度も用いられている。多分、クリスチャン達もこの黙示録の地震の方が頭の中に強く入っているので、地震の持つ「裁き」のような面が強く意識される結果、地震をただ厭うべきものとしてとらえやすいのだと思う。
このセイスモス「振(震)動」から来る動詞セイオー「振(震)動させる」は新約聖書中5回用いられ、この5ヶ所を学ぶだけでもまた重要な学びができる。
別の振動させるという言葉もあり、1つは「サレウオー」(揺り動かす)、もう一つは「トレモー」(震動)である。サレウオー「揺り動かす」は15回出る。トレモー「震える」は3回出る、その名詞のトロモス「震え」が5回用いられている。これは音楽の「トレモロ」という言葉の源になっている言葉である。エントロモスという「震動の中に入る」「震えている」という言葉もこのトレモーの派生語であり、3回出てくる。重要なのはこのような言葉である。
調べてみて、聖書は私達に地震に関してただ抽象的に教えているのではなく、かなり具体的に、また鮮明に、その意味について語っていることが良くわかった。
聖書全体の地震の意味付けについての教えが最も鮮明なのが、マタイ28:1〜10のように私には思える。それで、聖書の全体の学びをこの箇所の学びを軸に整理してみたい。そして、それは、私達がこの阪神・淡路大震災をどのように受けとめれば良いかについての聖書からの語りかけを聞く大切な試みである。
新約聖書に出てくる実際に起こった4つの地震(終末の預言にあるものは除いて)というのは下の4つである。
・マタイ8:23〜27
(前述したように)湖上の大暴風(大震動)
・マタイ27:51〜54
イエスの十字架上の死の時の地震
・マタイ28:1〜10
イエスの復活の時の地震
・使徒16:25〜34
ピリピでパウロとシラスが牢に入れられた時の地震
そしてもう一つの、使徒4:31も地震の中に入れた方が良いように思う。この「震い動き」は、サレウオー「揺り動かす」で原語が少し違うのであるが、しかし使徒の働き16:26の地震の際に用いられている「揺れ動き」と同じ言葉なので、このか所も地震の内に入れても良いと思う。すると、これも入れて新約の中の実際に起きている地震の記述は5回となる。
聖書は地震がどういう時に起こり、人々がどういう反応したのか、そしてどう反応すべきなのかを語っている。それで、そこから私達は地震への聖書的な応答の仕方を理解することができる。
マタイ28:2は、イエス・キリストの復活の時の大きな地震を記録している。これは、マタイ27:54のイエスが十字架で死んだ時の地震に続いて起きた地震である。十字架の死の時の地震の際、十字架のイエスの見張りをしていたローマの百人隊長は地震と様々な異象を見て、「この方はまことに神の子であった」と思わず告白する。この言葉は彼自身の十分な信仰告白とまでは言えないかも知れないが、しかし、異邦人である百人隊長がこの現象を見て、イエスを神の子であるとしか言えないという風に結論づけたことがまことに意義深いのである。
この地震という語をたよりにマタイ8:23を見ると、この時の「大地震」と表現される「大暴風」の中で、イエスにつき従ってきていた十二弟子達はひどく騒ぎたてて恐れまどっている。これは彼らがイエスの弟子になってまだ日も浅く、しかもイエスがすばらしい教師であるとは理解していても、まだイエスのご本質に十分気付いていない時である。いつもこの湖で漁師をしていた彼らが、自分達の命にかかわると思うような尋常でない嵐に出会って大きな恐怖の中にいる。しかし、イエスは彼らに「なぜこわがるのか。信仰の薄い者たちだ」と言う。そして起き上がり、風と湖とをしかりつけると大なぎになる。この時に彼らは「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」と疑問に思う。そしてその答が、その次の地震の際、十字架の番をしていたローマ人の百人隊長によって明瞭に答えられていると言えるのである。つまり「この方はまことに神の子であった」と。
イエスがあの湖の嵐の時に未熟な弟子達に対して敢えて言われた「なぜ恐がるのか、信仰の薄い者たちよ」という言葉は、大地震の揺れの恐れに満たされてとまどっている未熟なキリストの弟子達への語りかけの言葉としてとらえると良いだろう。つまり、大切なポイントは、人は大地震の際に、ただ単に地震を恐がりその現象を恐れあやしむところで終るのではなく、その時に、まことの神に対するしっかりとした信頼というものを問われていると受けとめるべきだということなのである。
既にまことの神を知りイエス・キリストを知って信じている人はその信仰を深めるべきであり、まことの神を知らない人は、天地創造のまことの神を信じる「信仰」についてしっかりと考え始めるべきであろう。それは、揺れ動く難破船の上で、自分の命をつくり支配しておられるお方について必死に考えよと言われているということである。難破船の上ではだれでも神頼みをすることだろう。つまり、その機にあたって正しい神理解をするようにと神に命じられ、そして、まことの救い主イエスについてしっかりと知り、イエスがどういうお方であるかを真剣に考えよ、これがこの大震動の中で語りかけられている中心部分であると言って良いだろう。そういう状況の中で、イエスがどういうお方なのかをはっきりと理解し、そしてイエスにしっかりと心からより頼むなら、たしかに、私たちの心は天的な平安と満足とを味わうことができるのである。これが聖書の教える神の大いなる救いの約束の内実である。
このマタイ28章の冒頭部では、はっきりと2種類の人々、つまりイエスを信じている人々と、イエスに敵対している人々とが登場する。大地震が起き、御使いが天から降りて来てイエスの墓の石をわきにころがしてその上に座ったというこの事件は、御使いが出現するということで、聖書の中でも特に強調されている印象的な奇跡である。ここでは大地震の震源が神かまたはこの墓を動かした御使いに帰されている。原文では2節の文頭には「すると、見よ」という強調句が入っており、これは神のみわざに注目させる時によく用いられる表現である。(マタイ27:51にもある。)また、理由や根拠を示す接続語も用いられている。またローマの屈強な兵隊の一団が、その御使いを見て恐ろしさのあまり「ふるえあがった」という。この「ふるえあがる」も前述の「セイオー(震動させる)」である。そしてマタイ27:51のイエスの死の際にも「地が揺れ動き」とあり全く同じ原語が出ている。つまり、地震は「地」も「人々の心」も「揺すぶっている」と聖書は語っているのである。この時恐れ驚いた彼らは死人のようになったという。彼らは腰を抜かして倒れ伏したのかも知れない。それほどの衝撃的事件だったのである。これは御使いとそのみわざを見て神のみわざを体験した恐れである。
この際の御使いの言葉が興味深い。この御使いはイエスの弟子である女たちには「恐れてはいけません」と言うのである。直訳は「あなた方は恐れるな」である。ここでも非常にはっきりと人々は二つに区別されている。そして、イエスを既に信じている人に対しては、「恐れるな」と言うのである。つまり、地震は神の重要な語りかけの手段の一部であり、それは神が意図的に起こしておられるのであって、その地震によって神が指し示しておられる重要な真理、神のなしておられる特別重要なみわざの方に私たちが目を向けることがたいへん大切なのである。その重要点というのは、イエスの十字架とそのあとに続く復活で、それがたいへん重要なので、神はわざわざ地震を二度重ねてまで起こして、その重要性と、そこにあるすばらしい神の祝福を教えているのである。だから地震というものは、ただ一般的に恐ろしいと厭うべきものでなく、同時に、それは神の祝福をその大きな衝撃によって人々に伝えて、信仰者には信仰の重要ポイントを自覚させ、さらには信仰の目が十分開いていない人々には信仰を覚醒するための神の語りかけでもあると言えるのである。私達は地震という事実に畏れおののきつつも、それが指し示すところの神の重要な霊的なメッセージをしっかりと聞き、神がその際に教え導いておられるところにしっかりと進んで行って確固として立つべきなのである。
聖書は明らかに地震が持つ祝福も語っている。使徒4:31は地震の肯定的な面を教える代表的な例の一つである。迫害にもめげずに、ペテロやヨハネがイエスの福音を大胆に語り伝道しようとし、神に向かって「大胆に語らせてください」と祈り「主イエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせて下さい」と祈り願うと、「その集まっていた場所が震い動」いたという。これも地震なのである。これは、全能の神からの「あなた方は祝福されている。あなた方の信仰はすばらしい。私はあなた方とともにいる。私はあなた方を守り私のみわざを豊かにあらわす。」というようなお励ましの震動である。ここでは、神が人々の祈りに答えて豊かなみわざをあらわすというお約束を与えて下さっている。これはそういう聖霊の満たしを伴った地震である。この地震は、地震のそういう祝福の極みを、また地震に聖霊のみわざが伴っているということをはっきりと教えている。
そしてもう一箇所。使徒の16:26を見ると、これは、マケドニヤに入って最初の伝道をしたピリピで、占いの霊につかれた女奴隷から悪霊を追い出した際に起きた事件である。彼女に占いをさせていた人々からかえって迫害を受けて、パウロとシラスが牢に入れられた事件である。これは十分な裁判もないまま笞打たれて牢に入れられるという、痛みの伴った理不尽な迫害であった。しかし彼らは真夜中にその牢の中で神に祈って賛美の歌を歌っていた。これは彼らの非常に熱心な祈りと信仰の告白である。すると、突然大地震が起こったのである。
これは明らかに彼らを解放するための地震である。獄舎の土台が揺れ動いてたちまち扉が全部開き、みなの鎖が解けたという。この地震は、まことの神を伝える人々を捕えていた人々に対しては神からの怒りの警告である。そして、それとともにもう一方では、神のしもべであるパウロとシラスにとっては解放の地震である。この地震も、神を信じる者にとっては肯定的な意味で祝福として起こっている地震と言って良い。
そして、このとき、さらに劇的なことが起こる。つまり、囚人を逃がすとその刑を自分が負わねばならない看守が責任を感じて自殺しようとする。それを、パウロが囚人達を掌握して彼の自殺を救う。そこから、事態の一大転換がはじまる。つまり、この看守は駆け込んできて、自殺を思いとどまっただけでなく、そこにいるパウロやシラスに何か異常とも思える力を感じたのだろう、彼らにひれ伏して「救われるためには何をしなければなりませんか」と尋ねたのである。そこでパウロは「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」と言う。これこそ地震が人々に指し示しているメッセージの中核部である。そして、このメッセージに答えて看守は信仰を持ち、彼は救われたのである。それはまた、彼の罪に満ちた古い生き方からの解放である。この地震は神の器であるパウロとシラスを牢から解放しただけでなく、未信者である看守とその家族をゆさぶり、神にそむく罪の生活から彼らを救い出すという霊的解放も起こしたのである。
この使徒16:21を決定的に裏付けまた説明しているのがマタイ28:5〜7であろう。このか所で御使いは、「恐れてはいけません」と言ってから、「あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。」と言う。そして、「来て、納めてあった場所をごらんなさい」と命じる。御使いは空の墓を見せて、それがイエスの復活の証拠であると教え、さらに、ガリラヤに行くと復活のイエスに会えると言う。そして結局、弟子達はその後実際に何度も復活のからだを持った主にお会いする。その記録と証言が四つの福音書やパウロ書簡に出てくる。つまり聖書は、イエスが神であり救い主であるということをこの「復活」という証拠で決定づけ、イエスに従い始めている者達に対して信仰の確信をはっきりと持つようにと、この復活の事実とそれに伴う衝撃的な地震とで促しているのである。他の箇所を学ぶことによってもわかるが、地震は人々の中からイエスを信じる者をはっきりと浮かび上がらせる作用をするのである。つまり、彼らにはっきりと信仰を持つように強く促すのである。信仰を持っていない者には持つようにと。信仰を既に持つ者にははっきりと持つようにと。そしてさらに彼らに、その信仰の確信を豊かに与えようとする。そして、十字架と復活をはっきりと信じる者は、地震を通して大きな霊的な祝福と益を受けることができているのである。
私達の実際の生活の中で地震が起こった時には、あの看守のような、まだ信仰を持っていない状態の人もいるだろう。また、イエスについて十分知らない人々はその時にはただ恐れてだけいることだろう。しかし、そういう人に対するイエスの招き、神のことばの語りかけははっきりしている。それは、この地震を機会にしてイエスをはっきりと神の子、救い主と信じよ。そしてそれゆえに恐れるなと言うものである。そこであなたが、イエスを救い主と信じ始め、そのイエスを信じる信仰をもった上で地震の意味や意義を探ってゆくなら、あなたは地震が私達を解放しまた信仰の確信を持たせるための神のみわざであることがたしかにわかってくるのである。
では実際これは何からの解放なのか。ピリピの牢獄の束縛からの解放にあたるものは、今の私達にとっていったい何を意味するのか。それは、この世の生活にどっぷりとつかって、この世の生活に慣れ親しみ、この世の繁栄を求め、モノ、カネ、地位、名声、あるいは占い、また願望成就の願いづけになっていた私達を、そのようなこの世の力の束縛や自己中心や虚栄心のドロ沼から解放してくださる解放である。神は私達がひとたび救われたその後も一歩一歩、さらに日ごとに私達を整えて豊かに守り導いて下さる。私達は神に感謝をささげつつ、信仰生活を成長させていただく。そして、次第に、地震ですぐにこわれてしまうようなもののためにではなく、永遠に残るもののためにもっと働くようになる。そして、主を信じる者同士の愛と恵みに満ちた共同体である教会の交わりの祝福にもあずかる。また、キリストをあかしして生きる者ともなってゆく。私達は十字架と復活の福音を信じるだけでなく、それをしっかりと伝えて、もはや揺るがされることのない来たるべきまことの天国の生活にこの地上から備えるのである。それは、罪に満ちたこの世の生活をはっきりと悔改め、神のみこころにかなった信仰に満ちた生活の中にはっきりと歩を進めることである。
実は、地震という言葉自体が実際に一番たくさん出てくるのは聖書の最後の書物、黙示録なのである。ここには、この世の終りにたくさんの地震が起こることが書かれている。これは何のために起こるのか。それは神を信じずに自分勝手に生きている人々の上に裁きとして起こるのである。そして、その一方で、そのことを経験することを通してその人々が神に向かって悔い改めることが促されている。しかし、この天地はそのたび重なる地震だけで完全に終るのではない。この世の最後に神はすべてを滅ぼし尽くして新しい天と地をおつくりになる。そしてイエスをはっきりと信じて救われた者は、震災がない永遠の御国、新天新地に行くのである。この地上での震災や、震災のごとき終末の時代を通らされることを通して、私達は罪深い自己中心の生き方から天国にふさわしい生き方へと、悔い改めを繰り返しつつさらに脱皮しつづけてゆかねばならないのである。この世のものばかり求める生活から、しだいにこの世のものを脱ぎ捨てる生活へ。天に宝をたくわえ、神の力、神の助け、神の導きと祝福とに全く委ねる生き方へと進むのである。それが天国の生活だからである。震災による様々なものの破壊や喪失は、神のみこころから考えると全く意味が違ってくる。それは天国の生活への招きであり、この地上の朽ち果ててゆくモノに執着している私達へのおごそかな警告であると受けとるべきであろう。神のしもべ達はここに神の深いみこころを覚えてそれを神への賛美を感謝に変えてゆかなければならないのである。そして、このようなことは、震災のような「災い」に会った者自身が自ら洞察して始める必要がある。そういう「災い」を経験していない者はそれを権威を持って語ることに恐れを感じるからである。
ピリピ2:12では「私のいない今はなおさら、恐れおののいて(トロモス:震え:名詞)自分の救いの達成に努めなさい。」とある。今後は自分から進んで、神の前での「恐れ」と「震え」とをもって、聖霊に満たされたゆえの自発的な熱心から自分の救いを達成するように努めることを私達は命じられているのである。
地震は、あなたに向かって「十字架と復活のイエス・キリストを信じる信仰をこの機会にはっきり持ちなさい。あなたはもうはっきりと救われましたか」ということを切に問いかけているものであることが、おわかりいただけただろうか。そしてこの迫力あふれる神よりの問いかけ、大きな揺さぶられる経験の中で、あなたが祈りと願いと叫びをもって恐れおののきつつ主イエスに近づくことこそ大切なのである。イエスはあなたに助けと平安と守りをお与えくださる。あなたにはそれを味わうチャンスが与えられている。しかし、もしあなたがこのことを、あの復活の際の墓番の兵士たちのように、ただ恐れただけで、気味悪がるばかりで、何の応答もせずにいるならば、また、何らかの別の理由をつけてイエスを救い主とはっきりと信じないままにいるなら、あなたはさらに大きな破壊的な揺れに遭遇することだろう。それはこの地上での悲惨な終末的な地震の数々に出会うことでもあるだろう。そしてまたそれは、最後の審判という、新天新地に入る際に人を選別する大いなる激震との遭遇でもあろう。しかし、もしこの地上であなたが、神より賜わる具体的な地震をきっかけに、ある時はっきりと悔い改めて神を信じ、救い主イエスを受け入れ、この揺さぶられたことをきっかけに自分の信仰を向上させ、ますます神により頼み、神にしっかりと委ねる生活を進んで行なうようになったのならば、あなたは次の地震にも、また終末的な地震にもこの世の終りの審判にも十分用意ができたといえよう。
この堅固な信仰によって、この世への断ち難い未練はしだいになくなってゆく。またこの地上を生きるにしても、実際の震災経験を経るならば、そうたくさんのモノが実生活に必要でないことにも気付く。多くの持ち物は震災の中を生き通すためにはむしろ妨げにもまた私達の上に倒れかかって来る凶器にもなるのである。私達は悔い改めた結果、天に宝をたくわえるために、また神の国ために、自分の時も財も持ち物も賜物も時間もみこころにかなって用いようと思うようになる。自らの身も財も時間もささげてボランティアをする思いにもなる。それが自然な生き方になり、それがますます喜びとなる。するとあなたはもう、生きながら天国にいるのと同じである。あなたは教会の兄弟姉妹の交わりにもきっと豊かに恵まれることだろう。そして、この地上で幸せになるということが本当の意味でどういうことなのかを十分理解することだろう。あなたは本物の人生をこの地上で豊かに味わう、まことの神の器として整えられるのである。そういうことを実際に経験してゆくならば、あなたもあの旧約の聖徒が詩篇119:71で語ったことが真実であると、喜んでともに告白することがきっとできることだろう。
「苦しみに会ったことは私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」と。
「子育ての極意」
まえがき
現在、各方面から「しつけ」の見直しが言われています。既に小学校から学級崩壊が始まり、小中学校の登校拒否者は二十万人と言われています。たしかに「しつけ」の欠如がそこにあることは確かなことです。
もう一方で家庭崩壊も急速に起きています。結婚数に対しての離婚数は三分の一を超しています。離婚には若年離婚もあれば熟年離婚も増え、「結婚」とは何かということをもう一度考え直さねばならなくなっています。また「家庭のあり方」も大きな課題です。精神的に病む人や自殺する人が増えているというのは、この経済大国の中で異常なことが起こっているというしるしでもあります。倫理的な基準やその土台の全面的な見直しが必要になっていると言えるでしょう。しかし、男女平等で民主的化が行き渡ったこの時代に、封建時代のような価値観でこの問題を解決しようという試みさえあり混乱しています。
聖書は「子育て」についても「夫婦関係」についても「家庭」についても、実に豊かな世界が教えられており、多くの人々が実際にその祝福にあずかってきました。「大草原の小さな家」という有名なテレビドラマのような家庭が生み出されるとお考えになると良いでしょう。すばらしい家庭が生み出され、そして、そこから数多くのすばらしい人材が歴史を通じて輩出されて来た事も見逃せません。わたしも体験し、意外と身近に良い解決があることを知っていただきたいのです。
「子育ての極意」は「聖書の教える子育て」を学ぶ本として執筆しました。執筆しつつ「子育ての極意」はキリストが繰り返し強調し教えた「弟子づくり」の一形態であると私自身、深く教えられました。「子育て」は「キリストが教えている霊的な弟子づくり」の身近な実践分野の一つと言って良いと思います。そして、教えられる側、つまり子供は、教える側の親の生き方そのものを体得し学ぶのです。だから、子育ては指導する側の親自身の人格づくりへの挑戦でもあり、またそれは親の方がまず、自分や子供の内面的な生活の深い部分における向上を考える事を様々な形で促されていると言う事でもあります。
私達は「子育て」や「しつけ」をそう軽々しく表面的なものとして扱えないものであることにじきに気づきます。それは、子育てに関しての色々な具体的な問題にいやでも直面しなければならなくなるからです。そして、それはまた、私達一人一人の人生の生き方そのものに大きな問いかけを与えます。私たちはよくも悪くも自分自身の生き方の報いを受ける事になります。
「子育ての極意」は、私達一人一人の自分自身の「生き方の極意」につながっていることを良く知りましょう。そして、聖書からこのことを学んで真剣に生きようと決意する人は必ず様々な形で神の祝福を受けます。どうかこの本をしっかりとお読みくださり、あなたもその祝福に豊かにあずかられますように。
心からの祈りと期待を込めてこの本を送り出します。
「子育ての極意」
秦 賢司著
目次
頁
1 永遠のいのちがあることを覚えて
3
2 「教会」があることを覚えて
4
3 「霊」があることを覚えて
6
4
リーダーシップを学ぶのは「聖書」が最上である
7
5 「イエス・キリスト」というよき模範
9
6
「よい友」とはイエス・キリストのこと 10
7
その子の特別な賜物を大切にする 11
8 「真理」があることを知って
14
9
若い日に創造者を知ることの大切さ 16
10
外見、外観以上に「人格」をつくる 18
11 苦労・苦難が人をつくる
21
12 親は「信頼」を教える鏡
22
13 「信頼感」のある人になろう
25
14
「赦す」「赦される」ことの大切さ 27
15 真実を語れるように
29
16 表と裏のある人格は危険
30
17
差別意識を持っていると国際人になれない 32
18
自国語をきちんと話せるように 33
19 語彙力、表現力をつける
36
20
本を早く読んで理解できるように 42
21 考え込む大切さ
45
22
一人で過ごす時間を持つことの大切さ 48
23
新しいことに挑戦するみずみずしい心 49
24
問題点を見つけ出して解決を考える 50
25
「言われてする人」から「進んでする人」へ 52
26 何が「勝つ」ことなのか
55
27 「やっつけなくても良い」
58
28 正義は確かにある
60
29
神の器は神により守られている 62
30 親はコーチである
64
31 子育ては弟子づくり
67
32
権威主義的リーダーから民主的リーダーへ 68
33 「答え方」を叱る
69
34
「性格の良さ」が生き残る秘訣 71
35 共感する力を持つ子に育てる
72
36 「祈り」を生活に
75
37
覚えた聖書のことばが頭から出てくるように 76
38 神の栄光を現わして生きる
77
39
洞察力のある人はどう考えるか 79
「子育ての極意」
子育てをどういう考えで行ったら良いのか。
弟子づくりにも通じる自分育てと子育ての方法
1 永遠のいのちがあることを覚えて
私達は自分も子供の時があったことを忘れて子供を育てることの難しさを嘆くものである。多分私達の親達も私達を育てることが難しいことだと思っていたのではないだろうか。
特に昨今の日本では、社会的に共通した倫理観や道徳観というものがなくなってしまったので、親がそれぞれに子供の育て方を自分自身で考えねばならなくなっている。そんな中で、一体子供を世界の人々はどう育ててきたのかということを考える人は幸いである。ここに、世界標準とも言える子育ての方法がある。しかもそれは多くのすばらしい器を生み出してきた方法である。ぜひ、あなたもその方法を試してみていただきたい。
私が教える方法は「聖書の教える子育て」である。「キリスト教的な子育て」と呼ばれるものが世には幾つもある。しかし「キリスト教的」という風に少し広くすることによって、本物から随分とズレが出てきているのが実際のところである。私は敢えて、聖書が本来教えている基本的な子育ての概念をあなたにお教えしたい。
それは、このやり方でやってみて、私は現在、実際に本当に良い子供たちに恵まれているという体験を持っているからである。またこれは、知的に最も無理のないスッキリとした方法でもある。聖書をきちんと学べばそれはすんなりと出てくるものなのだから。そしてそれは、時代を経ても、そんなに変化するものではない。それはまた、驚くべき新しさをも持っている。
そのまず第一に、私は「永遠のいのち」というものが実際にあるということを子供に教える教育を推奨したい。「永遠のいのち」というのは聖書に出てくる特殊な言葉のように思えるかもしれない。その意味するところは「神」が「天地万物を無から創造されたお方」なので、原理上、「時間」をもつくった神のみを「永遠」と呼ぶにふさわしい。それゆえにこの語が用いられていることをまず知ってほしい。宇宙物理学者は現在の宇宙の年齢を百四十億年程と言っている。つまり、宇宙は「永遠ではない」のである。そして、それを創造した神のみが「永遠」という言葉を用いるのにふさわしい存在なのである。それで「永遠のいのち」とは「神とともにいるいのち」というような意味の言葉とまず理解しておいて欲しい。
私達のいのちはいくら長く生きても百歳そこそこである。それも永遠ではない。そこでふつうは、この百年程の人生をとにかく面白おかしく、楽しくエンジョイして生きましょうという考えになる。別にそれが悪いというわけではない。しかし、目を留めておきたいことは、聖書によると、その百年という長さに比べても比較できないくらいの長さ、つまり「永遠」をあなたがこの地上の生涯ののちも生きる可能性が高いということなのである。
多くの人々はこの「永遠のいのち」など最初からないものと決めてかかっている。しかし、毎年五億冊も発刊されている世界の最大のベストセラーである聖書の最大のテーマは、私達が「永遠のいのちを持つ」ということなのである。そして、永遠のいのちに入れない人生のことを「永遠の滅びの人生」と呼んでいる。そしてそういう現在の人生からいち早く脱出するようにと切実に勧めているのが聖書である。子育ての最も重要な部分は実はここにある。だから、この地上での身過ぎ世過ぎの世知を子供に教えて教育を終えたとする親は子育ての責任を十分に果たしていないことになる。
子供が知らねばならないまず第一のことは、私達のいのちの本質が「永遠性」を持ったものであり、その永遠をどこで過ごすのかを問われ続けるのが人生の一歩一歩の歩みなのだということである。そしてそのことを私達親自身がまずよく理解して知っておかねばならない。そうでなければ、子供に正しい道を教えることができないのである。
これは、私達のしつけの目標が、その時その時の短期勝負ではなく、将来をも見据えた落ち着いた視点からなされる必要を深く思わせる。永遠のいのちにふさわしい知恵と知識を得ることを、まず最初に、親である私達が考えねばならないのである。
2 「教会」があることを覚えて
自分の子供のしつけを親が一人で、あるいはその一組の親がしなければならないと思うのは当然である。しかし、聖書を知ると、不思議にも子育ての援助者が次々と与えられるようになることを体験するだろう。これはまことの神を知り始めると聖書に教えられて、教会に参加するようになるからである。それで、「子育ては教会がしっかりと教えてくれる」という風に考えても間違いではない。教会には子育てのノウハウがたくさん蓄積されている。
特に、イエス・キリストがなさったご自身の弟子達の訓練や、イエスが最後に弟子達に命じた「弟子づくり命令」そのものが子育てに大変似通っているので、聖書そのものを子育ての参考書と考えても良いくらいなのである。また聖書は、子育てをきちんとできる人が教会で人をしっかりと育てることができる人でもあると言っているので、この弟子づくりと子育てとの両方はあいまって、正しい「人育て」のあり方を指し示す聖書的基準となっている。
つまり「子育て」は「人育て」の一つなのであって、私達は人生の様々な側面で「人育て」という働きをしつつ、またその「人育て」のための訓練を受ける機会があるのである。
子供が教会に来ると、子供も大切な一個の人格として扱われる。そして教会ではキリストを信じてキリストに仕える者にふさわしい人となるように子供を育ててゆく。これがそのままその子に対するしつけや訓練になっている。親も自分がそのやり方を学びながら自分も成長するので、子供を育てることを通じて人を育てるということが理解できるようになる。
教会は、神の導きに従って参加することによって、一方で自分が育てられるとともに、もう一方で人を自然に育てるようになるように訓練されるところなのである。だから、「子育て」も当然、その神が与える訓練の中の主要な部分なのである。
教会によっては「弟子づくり」や「次世代訓練」ということが十分に理解されておらず、そういう教えや訓練に全く不十分な教会もある。その教会が「弟子訓練」という聖書的な訓練をしっかりとしているかどうかを識別する指標は、一度その教会の集会に出るとわかる。子供がのべつ騒がしいような教会はそういうことを十分に理解していない教会である。(したがって大人の訓練もあまり期待できないと推測されることになる。)まあしかし、この程度で教会訓練を判別するのは失礼なことなのではあるが、これは明白な事実である。子供の「しつけ」と教会に参加している人々の「正しい訓練」が重なっているのでこういうことが言いうるのである。教会によっていろいろな「事情」もあるのだが、「訓練されにくい大人」が子供のしつけ不足を生んでいるというのもある程度あたっていると思われる。
日本では昔から子供が何か悪いことをすると、「お里が知れる」という言い方があった。つまり、子供がちゃんとしつけられておらず、だらしないのは、親が訓練をすることにおいて不十分なのが明白だと言うのである。そして、その親は大いに恥じなければならないのである。
今日、親が子供のしつけの足りなさで恥じるという感覚が大いに薄れてきていることは大変大きな社会的問題と言える。私達は子供のしつけを通して、まず、親自身がしっかりと自分の責任を果たすことを考えねばならない。ましてや、キリストを信じるクリスチャンは自分がキリストの弟子となるとともに、命じられている「弟子づくり」に正面からしっかりと取り組むべきである。
「教会生活」というと、礼拝に来たり、教会の掃除に来たりすることのように思っている人も多い。それも教会生活の一部には違いないが、もっとはっきりとした主イエスの命令である「弟子づくり」をさらにもっと充実させて、それを子育ての大きな結実の祝福にまでつなげてゆきたいものである。これが聖書の教えている正しい「教会生活」である。
3 「霊」があることを覚えて
子供をしつけ、教育する時に、日本人は何か規則を守らせることがしつけや教育のように思ってしまっている。そこにある思想や発想は、教えられたことや言われたことのワクの中で、とにかく型通りに推し進めさせるというか、その通りするように命じるというか、そういうことを「しつけ」だと思っている。
これは、子供もきちんと「意思」というものを持っているということを否定した、甚だ無作法かつ機械的なやり方である。もっと言うなら、これは「人間性無視」と言ってもよいものだと思う。
たしかに、子供は十分にものを知らない。しかし、子供も意思はちゃんと持っている。子供の意思を善い方向に向けて、自分から進んでそれをさせるように持ってゆくのが親のしつけのやり方の極意と言ってもよいだろう。そういうことを考えずに、とにかく頭ごなしに、こうしろ、ああしろという風に言い続けるのが日本の昔からのしつけの方法であった。これは子供が未熟であることを考慮に入れたとしても、甚だ非人間的なやり方である。
こういうのを「人格的関係のない間柄」と言うのである。主人と奴隷のような関係である。一方が相手をモノのように扱う。そして、その人に進んでやる意思が全くないかのように扱う。
人間はみんな「自我」というものを持っている。その「自我」が常に正しいとは限らないのだが、しかし、その自我を正しく砕くことができるのはただ神のみである。人間がそれを正しく砕くことは、できるようであってできない。かえって私達は、自分の自我を神によって砕いていただくということをしなければならないような状況の中にいる。親が、自分の間違いを神の前で砕かれた状態となり、そこから子供に対して神からの確信を持って語り、教える時、子供はそこに神の権威への従順というものを学びだす。このようなことがなされることが大切なのである。だから「神についての知識」というものが正しくなかったり、はっきりしていなかったりすると、神を考慮に入れる部分を欠くので、その結果甚だ機械的な、また人間的な間違いの混入したやり方になってしまうのである。
導く者も導かれる者も、双方が神を畏れて、神への祈りのうちにその進むべき道を真剣に求めてゆく。それが本来あるべき正しい親子関係である。つまり、このあり方は、私達日本人が昔からやってきた「外から」つまり「行動から」「外観や外見から」変えてきたやり方ではなく、むしろ私達の深いところの「心」から、いやそれよりも、さらにもっと深く一番深い「霊」の部分からアプローチする「しつけ」を、私達はしっかりと考えてゆかねばならないのである。
多くの日本人にとってこの「霊について」あるいは「霊から」考えることは大変難しいことである。それは、この国には「偽りの霊」「悪霊」と言われるものがそこここに働いており、「聖霊」を考えたり「聖なる霊」の働きを見い出すこと自体が困難なのである。
「霊を大事にしよう」などと言うと、そこいら中にある祠や偶像を片っ端から拝み始める人もいる。私はおごそかに警告したい。こういうことをしていると、精神的に、また実際の生活上で大きな心の問題を起こす危険がある。「悪霊の力」というのは無視できない大きなものなのであって、かりそめにもそういうものに拝んだり、すがったり、祀ったりすることは、その悪しき霊の強い影響下に入る可能性が大きくなるものだときちんと理解していただきたい。
あなたが祈るべきは「あなたをお造りになった、あなたのすべてを知っておられる、天地万物の創造主であり支配者であるまことの神」である。この神を、このまことの霊を知る必要がある。そして、この「まことの神の霊」が、あなたの一番深いところにあるあなたの「霊」と交わりをお持ちくださることをあなたは深く知る必要がある。聖書を読む時に、あなたの心の奥に聖書から語りかける神の御声が「まことの神の霊」の声である。
昔、あるクリスチャンホームの子供が悪いことをした時に、その子のお父さんがやさしくその子に「神様に罪を告白して祈ろうね」と言うと、そのまだ3歳くらいの子供は、私の見ている前で本気で泣き出したのである。そして「神様、本当にごめんなさい」とはっきり罪の悔い改めの祈りをしたのである。子供の方が大人よりもこういう点では素直な心を持っているように思う。そして、こういうしつけをすることが、人間の心に「霊」があることを覚えてなされるしつけなのである。こういうしつけ方をすると、あなたの子供もきっと深い人格を持った心の厚みのある人間として育ってくれることだろう。
4 リーダーシップを学ぶのは「聖書」が最上である
自分の子供をしっかりとしたリーダーシップを持った子供として育てたいというのは多くの親が願うことだろう。学校に行けば成績競争もあれば、いじめもある。子供がそういうストレスを乗り越えながら、友人関係も上手くいき、なおかつ将来性のある力をつけてもらいたいと思うのは親達の共通した願いだろう。
アメリカの有名な大学にはMBAコースというものがある。これは「経営学修士」という学位を与えるコースで、入学するのにも高い競争を勝ち抜かねばならない。しかも、その学びも結構ハードで、実際のケースをたくさん読んで学び、そして今度は自分が実際の経営で成功せねばならない。このコースの卒業生は良質のリーダーシップを求める社会の必要にかなっているので大歓迎されている。アメリカには大企業も中小企業もたくさんあるが、しかし、どの企業よりもまさって大きい団体、大きい集団というものが何十万もあることを御存知だろうか。それは「教会」である。
アメリカには今二億八千万人程の人がいるが、大体その半分の人々は日曜日に教会に通っていると言われている。つまり、一億四千万人。日本の人口より少し多いくらいの人々が教会に行っているということなのである。日本人なら初詣と法事の折に神社やお寺に行くくらいであるが、アメリカでは多くの人々が日曜ごとに行く。だから、アメリカではその人数分くらいの「教会の座席」があると言ってもよい。これはそれぞれの教会が全部違うのだが、膨大な数の教会があり、そして一つの教会に相当の数の人々が参加している教会も実にたくさんあるということを意味しているのである。
「アメリカでは日曜礼拝に千人以上の人が来る教会が一万以上はある」と聞いたことがある。考えてみればそれでもその合計人数は一千万人あまりである。それはアメリカのクリスチャン全体のたった7%に過ぎない。
一口に「千人来る教会」と言うが、毎週千人の人が来ている団体というものを考えるとわかるだろう。それは小学校くらいのスタッフと組織を必要とする。会社で千人も従業員がいれば、もう立派な上場企業である。こういう教会をだれがマネージメント(管理)しているのか。牧師を始めとするクリスチャンのリーダー達である。経営学のようなものは教会の運営にも大いに用いられていると言われている。経営学の大家ピーター・ドラッカーが敬虔なクリスチャンであることは偶然ではない。たしかに、教会では常にそういう必要が現実にあるのである。
教会というのは経営学から考えても非常に興味深い組織なのだそうである。ふつうは、人は給料をもらってその組織で働く。しかし、教会ではふつうの信徒には給料は出ない。むしろ献金をする。しかもその人々が喜びと感謝を抱いて大きな奉仕の働きをしているのである。それでアメリカでは、教会を牧会できる人はどんな組織でも動かせると言われている。良い経営者が必要な時、牧師経験のある人に声をかけるくらいだそうである。教会生活をふつうにしているだけで、社会で必須のリーダーシップがしっかりと学べるというのは大きなメリットと言えよう。
子供が小さい時から教会に来ていると、その子は教会ではいろんなことを訓練されることになる。キャンプの手伝いだとか、音楽のグループへの参加だとかをくり返すうちに、次第に年長になり、そして、年下の子に教えだす。社会に出ると、実はこういう経験が大いに役に立つ。社会生活は何か一つのプロジェクトをみんなで同時にいくつかこなしてゆくということの連続のようなものなので、教会で知らぬまに培った「リーダーシップ」が大いに役に立つのである。
教会ではいわゆる「民主的リーダーシップ」であるが、この世の組織では、日本などではいまだに「権威主義的リーダーシップ」が多いと言われる、人間的な上下関係を主にした支配と服従の関係で有無を言わさず権威主義的に強引に従わせようとする。そしてそのような中で、人は人間関係に失望し、心の傷を負うのである。正しい民主的なリーダーシップを子供のうちから教会で学べることは何と幸いなことかと思う。子供は幼い時から教会でしっかりと育てるべきである。これはその子にとって生涯にわたっての大きな祝福となる。
5 「イエス・キリスト」というよき模範
しつけをするにも、よき「モデル」「模範」というものが必要である。子供が教会学校に参加するとすぐに覚えるのはいろんな質問に「イエス様」と答えることである。教会学校の先生が「こういうことをなさったのは」などと質問するので、子供たちはそう答えることがよくあるのである。それがイエス様でなくても彼らが「イエス様」というのを聞いているとほほえましい。
子供にとってイエス様はヒーローである。多くの病人を癒し、人々を救い、弟子達を訓練し、そして十字架について死ぬが三日目に復活し、昇天なさる。イエス・キリストこそ聖書の中心テーマであられる。
ある伝道者は肉体労働をして伝道していた時に、いつも賛美歌を歌いながら仕事をしていたので、彼のあだなが「イエス様」になったとのことである。まことに名誉なことである。私達もイエス・キリストに似た者となりたいと思う。「クリスチャン」というのは「キリストにしっかりと従う者」という意味なので、クリスチャンはキリストに見習う者ではあるのだが、人生を長く生きていると、初心を忘れてしまうこともある。常に私達は主イエス・キリストに見習う者となりたい。
そして、子供達には「イエス様」というよき「模範」があることを教えるのである。
ただ、気をつけねばならないのは、心の内容がついていっていないのに、外面だけイエス・キリストに似せようとして格好をつけるという誘惑である。これは有害である。前の課では「霊から始める」と言って「形や型から入る」ことを戒めたが、子供に一番有害なのは、よく理解せずに格好にばかりこだわることを助長することである。ただしかし、もう一方で「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」(ルカ一八・一七)とも言われているように、自分の都合や言い訳ばかり考えて、結局神に従うことに失敗してしまう大人が多いことを思う時に、ストレートにイエス・キリストをただひたすら真似ようとする子供を軽々しく否定することもまた反対側の間違いだろう。
子供は大きな可能性を持つ。そして、子供の成長は少し長い目で見なければならない。イエスの公生涯が三十歳からであったことを思う時、三十歳くらいになるまでにイエス・キリストに似た者と整えられてゆくようにと祈り続けることは間違いではないだろう。常に一喜一憂するのではなく、イエス・キリストというお方をいつもよく見るという信仰の基本を子供達に教え込むことこそ親に委ねられた責任なのである。三十歳を過ぎる頃に、その子が一体どういう人になっていくか。そういう楽しみと期待とをしっかりと持って子供をイエス・キリストに学ばせて育ててゆこう。
6 「よい友」とはイエス・キリストのこと
「友達を選べ」とよく言われる。子供は友達によって変わる。もちろん近所の友達、学校の友達、と子供には様々な友人ができていくわけだが、その子が最も大切な友とするお方を「イエス・キリスト」とすることを親が様々な形で教えることが大切である。
子供は友人に大きな影響を受ける。友人が盗みを誘うとその子は盗みに走るかもしれない。あまりにも家庭背景が違う子と友人になることに親が恐れを感じるのは、時にこういうことが起きるからである。
子供もそう愚かではない。子供は自分の家でしつけられた範囲で友人を探すものである。しかし家庭でのしつけを怠っていると、こういう悪しき、そして活発な友人に強い影響を受けるようになるのである。子供にも子供の人生を過ごす権利があるにはある。しかし、反社会的なことを幼い頃から身につけてしまうなら、その子の将来に大きく暗い影を落とすことになる。特に最近はしつけをされず、放ったらかしのような子供が多い。しかも、親がそれで良いと思ってそうしている。それはその子の親の重大な過ちなのだが、よその子までもその悪しき影響に陥れられるようなことのないようにしなければならない。
今の時代、多くの親は自衛手段を講じるようになってきている。それは、子供を勉強で忙しくして、あまり友達遊びをさせないのである。また、学校の課外のスポーツなどに参加させて子供を肉体的に疲れさせて、悪しきことに子供のエネルギーを用いさせないようにするという考え方もある。しかし、「友達との関係」というのはやはり必要であり、そういうものは自然にできてゆくものである。
そこで、まず、幼い時より、子供にイエス・キリストのことをよく教え込むようにするとよい。主イエスは生きておられる。そして、信じる者の心の内に宿って住んでくださり、様々な導きを与えてくださる。このイエス・キリストを幼い頃から子供の心にしっかりと教え込んでゆくのである。
子供の心に主イエスは実際に宿ってくださるし、子供の幼く単純な祈りを主はよく聞いて答えてくださるお方である。この、いつも伴ってくださる「よき友なる主イエス」と生活を共にするというライフスタイルを幼い時から築き上げることのできる子供は幸いである。
こういう生き方をしている子供は、イエス・キリストが私達に何をせよと教えておられるのかについて敏感になる。そして、主が聖書の中で強調して教えておられることには特にしっかりと従うようになる。このことを私は特筆したいが、特に大切なのは子供が友達を「教会に誘う」ようにしっかりと教えるということである。
これは大人にとってもとても大切なことなのだが、子供の中にはこういう「伝道」や「あかし」ということがよくわからず、照れたり臆したりして全くできない子もいる。教会を時代遅れの恥ずかしいところと思っている子供があるかもしれない。それは教会の責任でもあるだろう。しかし、どこの教会でも教会学校があり、子供が友達を連れて来ると大歓迎してもらえるものである。
それで、教会では子供が子供を連れてくることができるように、様々な楽しい集会を企画して友達を誘うように促すのがよい。これはこういうことである。つまり、クリスチャンの友人に教会に連れられてくるような子は、霊的なものに目が開かれやすい子供なのである。新しいものにも心を開いている。しかも、教会には本物の救い主と本当の愛をもった天国の民クリスチャンがいる。ここで素直にイエスを信じるようになれば、その子も天国の民となるのである。
その反対に、教会をばかにしたりするような子は霊的なものに目が閉ざされたままの子である。ある場合、それは「悪しき霊の働き」によるのかもしれない。そして、そういう子供たちと深く付き合うことは、その子供たちの影響を受けて自らを傷つけることになりうる。だから、ここで友人が二つに分かれることになることもある。しかし、それはその子のためである。それは主を信じて従うことのゆえに仕方がないし、実はそのことがその子を守ってくれるのである。
つまり、私達はまず第一に自分自身がイエス・キリストを友とし、そして、周りの人々をそのまことの友イエス・キリストに引き合わせることを主眼にして生活していると、結果的に良い本物の友に恵まれることになるのである。これは私も信仰生活を長く行い、また、多くの人々を見てきて深く感じる実際の経験でもある。イエスを第一の友とする人はこの地上の豊かな友達に恵まれる。そして、伝道や弟子づくりを考えるまともなクリスチャンになることが、社会生活をしてゆく中で人間関係を実際に守られてゆく大きな秘訣なのである。このことを実感を込めて子供に語ろう。そして、子供が幼い時から「私は福音を恥とは思いません。」(ローマ一・一六)とあるように、福音を恥ずかしいと思わない、まことの神の人としてしっかりと育ててゆこう。
7 その子の特別な賜物を大切にする
私達は大量生産の時代に住んでいる。規格品を作り、同じものを大量に作ってコストダウンを図るのである。プラスチックの品物を作るのは意外と簡単なのだが、それを作るのにはまず「金型」というものを精密に作る必要がある。これがとても高価なのである。
それで、一旦作ったその「金型」から同じものをたくさん作ってコストダウンを図る。それが私達の社会のやり方になっている。
人間がたくさん生存しているので、人間も何か金型で作られた大量生産品のように見えてしまっている人がいるのではないかと思う。それで、大変単純な指標で人間の値打ち付け、ランク付けをはかろうとする。
社会に出てわかったことだが、私は高校を出てから今まで、自分自身の生活で三角関数の知識が必要だったことは一度もない。論理的に考えるということは大切であり、数学でそういうことを学びはしたが、しかし、社会生活で必要とされるのはもっと別の力や知恵であることも確かである。
私は体でするけんかは弱かったが、口げんかは強かった。それで今、おしゃべりをする仕事を結果的にしている。しかし、それは中学校の時の体育の成績や国語や数学の成績にどれだけ出ていたのだろうか。また私は中学生の時に誘われてコーラス部に入った。男声部の補強のためだったが、そこで楽譜を見て音を取れる訓練を受けたことは今大変役立っている。牧師は楽器のないところでも賛美歌をリードして歌う必要があるのだから。このように、教育は、受けている時には何が役に立つか、わからないようなところがある。
私は六年生の時の先生に「秦は口げんかが強いから弁護士さんになったらよい」と言われたのでそんな気になっていた。そして、中学生になってコーラスを始めたので「歌とおしゃべり」との両方が使える仕事は何かなと思ったものである。思いがけなくなってしまった牧師という仕事であるが、しかし、この時の「歌とおしゃべり」と考えたのは妙に覚えていて、人生にはこういう導きもあるのだなあと思っている。神は私達を時間をかけてユニークに将来の使命に備えさせるのだと思う。
牧師にもいろいろな人がいる。特に最近は牧師が音楽ができるということはとても大切なこととして扱われている。そしてそれに加えて、深みのある聖書講解、さらに卓越したリーダーシップなどを持っていると、多くの人々が教会に集ってもその人々がスムーズに学べ、また動くことができるように手を打てるようになる。
日本では各々のキリスト教会がそんなに大きくないので、牧師が一人だけという教会も多い。しかし、アメリカなどに行くと、何千人も集まっている教会があちこちにたくさんある。すると、その教会では実に多くの有給、無給のスタッフ達が働いている。皆、嬉々として働いているのだが、大きな教会に行けば行くほどユニークな仕事がある。
私は大教会のトイレ掃除担当神学生に会ったことがある。数千人もの人々が参加している教会堂の敷地内にはトイレの数も多く、彼はトイレ掃除のエキスパートなのである。
また、別の教会の高校生担当スタッフにその教会の高校生達のピザパーティに連れて行ってもらったことがある。私はその中にいるだけで疲れてしまった。何を食べたらこんなに活動的になるのだろうかと思うくらい、アメリカの高校生達のバイタリティはものすごい。そして、その高校生達をがっちりつかんでリードしている若い高校生担当牧師は、彼らの良きアドバイザーでありヒーローである。彼はポンコツのリンカーンという高級車に乗っていた。乗る車にまで高校生向けの話題づくりをしている。
また、アメリカの教会はどこでも音楽、それに映像、さらに劇、またパーティの装飾などのセンスにもたけており、最近は教会のホームぺージなども本当にすばらしい。教会では様々な賜物が生き生きと組み込まれて用いられている。そして、社会とはそういうところである。それぞれが持っている特性や特徴を十分に生かして用いて、自分も周囲も大喜びできるという場がきっとある。
一人一人、神のことばである聖書をしっかりと知って、正しい人生観、人間のあり方をしっかりと理解したら、次は「私は神にどのように用いていただいたらよいのか」ということをしっかりと祈り、自分の賜物は何かを祈り考えるようになる。人は様々なチャレンジに出会う時に、次々と自分の可能性を広げることのできるような考え方を持つ方向に向かってゆかねばならない。人間は一生成長を続ける必要がある。「賜物」とは言うが、それが初めから自分でわかっているという人はいない。いろいろとやってみて、自分が気持ちよくできて、うまくいって満足感もあることが自分でわかってくる。それを見つければよいのだ。それが賜物といわれるもののように私は思う。
また、何かの役割をするにしても、人は皆違う賜物を持っているので、その人その人がそれぞれ違うやり方でやることも大切である。
役割をきちんと認識して自分に与えられた賜物を大いに活用してすべき責任を果たせばよいのである。そして、さらにそこで成長しようと思えば、ますますよく考えて、自分なりに成し得る最善を考えて心を込めて働く。伸びる人はそういう役割を与えられると自らその機会を活用して飛躍的に伸びるものである。
そして、そこでは新しい賜物も開発されてくる。つまり役割や責任が与えられて「どうしてもやりとげなきゃ」というテンションがかかると、我々はいろいろと自分なりに考えた行動を始めたり、また新しいチャレンジに答えて、新しい試み、新しいやり方、新しい努力の方に向くのである。そして新しい自分になってゆける。これが人間の成長である。
子供にはそのような賜物の芽がいっぱい詰まっていて、そして、やがて開花するのを待っている。人間の遺伝子とはそういうものである。元々からいろんな可能性がいっぱい入っているのだ。花咲き実を結ぶのは環境次第。またチャレンジに応えてやろうとするやる気次第なのである。
だから、子供には一方で好きなことを自由にやらせる。そして、 |