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世界につながるあなたの教会夙川聖書教会にようこそ。 当教会の何よりの特徴は、牧師の礼拝時の講解説教です。説教は英語で同時通訳されています。 ◎最近、下記の「お得なクリスチャンを」ネットでお読みの方が驚くほど増えています。 他の本をいくつか書いていましたので、この本を正式の出版に進めるのが遅れている間に はじめに 「お得なクリスチャン」というタイトルについてのご説明 23 心の内と周りの動きの連動がわかる幸い (詩篇127・1、2) 25 神を捜し求めたら必ず見つかる祝福 (エレミヤ29・13) 26 夫婦・家族が心から一つになれる幸い (使徒16・31) 27 心を一つにできる友人が世界的にいる幸せ (マタイ28・18) 28 心の休憩ができる幸せ (マタイ11・28〜30) 29 人生の訓練を喜んで受けられる幸せ (第二ペテロ1・5〜7) 30 聖書を覚えていることの祝福 (詩篇119・11) 31 善意に考えることのできる幸せ (エペソ4・27) 32 宝が天にたくわえられている幸い (マタイ6・20、21) 33 心から歌える歌がたくさんある幸い (エペソ5・19) 34 ホンネとタテマエの使い分けが不要な祝福 (第一コリント15・58) 35 あちこち拝まないといけないことからの解放 (出エジプト記20・3、4) 36 祈る対象がはっきりする幸せ (詩篇96・5) 37 品性の向上が、聖人の道がわかる幸せ (ヨシュア記1・9) 38 どんなことでも感謝できる幸せ (第一テサロニケ5・18) 39 万事が相働いて益となる幸せ (ローマ8・28) 40 人間関係に平和を経験できる幸せ (ヨハネ20・19) 41 他の人と比べてあせる必要のない幸せ (第一コリント12・27) 42 いやしを期待できる幸せ (ヤコブ5・15、16) 43 知恵が得られる祝福 (箴言1・7) 44 神の祝福について (ルカ24・51) 45 一日一日生きることの幸い (マタイ6・34)
はじめに 「お得なクリスチャン」というタイトルについてのご説明 私が牧師をしている教会には附属して、宣教師が教える英会話クラスがある。そのキャッチフレーズが「Enjoyエンジョイ Englishイングリッシュ! お得な英会話」である。Enjoy(楽しもう)というのは、アメリカ人の先生が名付けたもので、英会話を学ぶことに限らず、何でも楽しみながら行なったほうが頭によく残るといわれているからである。また、それは、健康にも良いという。 また、私達の英会話は少人数制でアットホームな雰囲気で行なうだけではなく、米国の教会の牧師さんが推薦する先生に来ていただくので、教師達がそれぞれ楽しいキャラクターで、小さいクラスを楽しく導いてくれる。しかも、教会の門をくぐっていただくために教会の施設を利用してこの教室を開催しているので、楽しくて有意義なうえに会費もエコノミーである。それで、「お得な英会話」とも名付けられているわけである。 夙川クリスチャンセンターと言う名前を聞いて、その名前に抵抗がある方は最初から来られない。しかし、この名前だから来て下さる方もおられる。そして、来られた方々に向け、もっと聖書を知っていただくよい方法がないかと常々考えている。宣教師が英語でバイブルクラスをするのも好評である。しかし、私にできることを考えている中で、こういう本を書いてみようという思いが与えられてきた。 まだ教会に足を運んだりしたことのない方々や、ちょっと聖書を読みかじってみたが、何を書いているのかわからないという方々にむけ、聖書の内容を少し知り、キリストを信じる生活のエッセンスでもわかっていただければという思いで書かせていただいた。もちろん、すでにイエス・キリストを救い主と信じている方にはさらに信仰を深めていただく助けになればとも思っている。 この本を書いていて、私自身がずいぶん「お得な人生」を送らせていただいているという実感がふつふつと湧いてきて、喜びがみなぎってきた。こういう観点から自分のキリスト信仰を見ることは少なかったので、あらためて自分自身に与えられている神の恵みを自覚することができたのは幸いだった。一般に思われている以上にキリスト教には「ご利益」がいっぱいあるということだと思う。 しかし、この生き方は、ご利益を直接求めて生きているのとはまた違う。神を見上げて聖書を読み、キリストを信じて生きると、結果として実際ここに書かれているような祝福された人生経験がだれでも得られるのである。これは何か非常に神秘的なカルト宗教のような経験でもないし、例外的な経験でもない。だれでも聖書を素直に読めば、そしてキリストを信頼して生きれば与えられる、二千年の間多くの人々が味わってきた証明済みの安心で幸福な経験である。そしてあなたも、味わいたいと心から願えば、これは必ず味わうことがおできになる身近な経験でもある。 日本人はいまだにキリスト教を西洋の宗教のように思い、そして信仰の内容を理解せぬまま自分を仏教か神道の信者のように考え、聖書を無視して生活している。さらに、墓や仏壇や葬式や親戚づきあい等の外面を気遣い、自分はとてもキリストを信じられないと錯覚している。ところが、最近は過半数の結婚式がキリスト教形式で行なわれている。キリスト教は明るいし、あかぬけしているし、男女平等だし、幸福なイメージに充ち満ちている。あこがれている方も多いと思う。しかし、形だけ真似るだけでは、本物の幸せはやってこない。本当に幸福に満たされたいと心から願う方は、私がこの書物でお教えしている内容をまず十分理解していただきたい。私が繰り返し語っていることをはっきり把握されるなら、幸福に導かれる。 イエス・キリストの教えは、どう考えても本当に「お得な人生」の過ごし方の教えなのだということを、ぜひあなたにも知っていただきたい。そして、あなたのこの一度きりの人生を、ぜひ喜びと感謝に満たされて毎日を生き、悔いなく全うしていただきたいと私は心から祈り願っている。 神様からの大きな恵みと祝福を心より祈りつつ 夙川聖書教会 牧師 秦 賢司 「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(ヨハネ9・25) この人は盲人であったが、イエスにいやされて目が見えるようになった。そしてイエスは、私達がみなこの盲人と同じ経験をする必要があるという。私達は皆、盲目だというのだ。いったいどういう意味でイエスはこのようなことを言われているのだろうか。 まず私達は不思議なことに、なぜ自分が今ここに、この地上に存在しているのかを知らない。何のために存在しているのかもよくわからない。私達はたった一人の人の心の内すらも、十分に読むことができない。明日起ることさえわからない。そして自分が今していることがどんな意味のあることかもよくわからない。真剣に生きようと思えば思うほど、私達は実は自分には何も確かなものが見えていないことに気がつく。 自分は生きている。そして、触れるものは確かに存在する。しかし、それ以上のことは私達はほとんど何もわかっていないのだ。時間とは何? 宇宙の果ては? 目の前にある空間の最も微細なところには何があるのか。私達にはこんな単純なことが今、全く見えも分かりもしていない。私達の「目」はよく見えるようでも、電磁波のうちの可視光線しか見えない。赤外線より波長の大きい波も、紫外線より波長の小さい電磁波も全く見えない。それに人の心も見ることができない。他の人の生活も見えない。私達はごく限られたものを見て、そして分かったような顔をして生きている。「見えていない」と言われれば「そうかも知れない」と言うしかない。しかし、いったい「見えるようになる」とはどういうことなのか。 この盲人は、イエスに語りかけられ、イエスに触れられ、イエスに聞き従い、そのようにして体験的にイエスを知った。すると、彼の目が奇跡的に開かれた。これはイエスがなされた特殊ないやしの奇跡である。そしてイエスの具体的な奇跡はいつも、イエスがそれと並行して同時になしておられる霊的な奇跡の、目に見える現われでもある。つまり、この盲人は眼がいやされたとともに、それ以上に、心の目、霊の目が開かれたのである。そして、これで「本当に見えるようになった。」と言っているのである。 それでは、心の目が開かれて見えるようになるとはどういうことなのか。この盲人は、目をイエスにいやしていただいて、今度は自分の目で直接イエスを見ることができるようになった。その体験を通し、彼はイエスが神の子、救い主であることを知った。心の目が開かれるということはそれがわかることである。つまり彼は、全能の創造者である神の子イエスを、自分の目で今はっきりと見ることができている。今までは見えなかった神の子イエス・キリストがはっきりと見えてくる。それが心の目が開かれたということなのである。 心の目が開かれることは、一つ一つの未知のことが全部いっぺんに明らかになり分かるようになるということとは違う。心の目が開かれるということは、万物を無から創造した神を真正面からよく見ることができるようになるということである。イエスを通して創造主なる神がよくわかり、その神と心が通じ合えるようになると、神が私達の無知な部分や未知の部分の一つ一つを説明してくださっていることがわかる。イエスは語っておられ、また神の言葉は聖書として今私達に語りかけている。イエスに聞き、聖書に聞き、そして、キリストの霊、聖霊に聞いてゆくならば、人生の疑問は一つ一つと解消されてゆく。 イエス・キリストが救い主であることを知った人は霊の目が開かれた人である。その人には今まで見えなかった神の創造と導きの世界がよく見えてくる。そして、その人は、この盲人とともに「今は見える」と心から言うことができるようになってゆくのである。 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14・26)
私達は時々、突然何かを思い出す。ほとんど忘れていたのに、急に思いついたり、忘れていた過去を思い出したり、友人を思い浮かべたり、仕事を思い出したり、アイデアが浮かんだりする。英語のインスピレーションという言葉はイン(「中に」)とスピリット(「霊」)が合わさった言葉なので、ここにも何か霊的なものの働きを感じる言葉使いがある。 「思い出す」とか「思い起こされる」という行為を考える時に、それが「霊的な」ことと通いあっているのだと考えてみると、この「霊的な」という言葉の意味がよく分かるのではないだろうか。クリスチャンは「祈る」という最も霊的な行為の最中に、実に色々なことを「思い出し」、「思い起こす」ものである。 神はイエス・キリストを通して、神を信じ始めた者に「聖霊」を与えて下さる。その聖霊は私達に「すべてのことを教え、またわたし(イエス)が話したすべてのことを思い起こさせて下さいます。」(ヨハネ14・26)とある。 文頭のみことばは、イエスを信じる者の心には聖霊が働いて二つのことをして下さると言っている。一つは、「すべてのことを教える」つまりあらゆる疑問に対して神よりの教えを与えて下さること。もう一つは、「イエスが話したすべてのことを思い起こさせて下さる」ということである。この後者が、思い起こさせて下さる聖霊の働きについて明瞭に教えている。 私達は色々なことを思い起こす。そして思い起こすことの中でもとりわけ、イエスが話したことを思い起こすことは重要である。様々なことを思い起こしてそれが皆「神のみこころ」というわけではない。しかしイエスの教えを思い起こすなら、それは重要な思い起こし、神の特別な導きのみわざと言ってよいだろう。神を信じ祈っている者にとって、タイムリーに何か「イエスの教えを正しく思い起こす」ことは、そのまま「神の導き」と名付けてもよいものである。「そうそう主イエスはこう教えておられる。」と思うことの連続そのものが信仰生活である。こういう「人生の規範」というか「心の中の正しい判断基準」を持って生きることが、私達をつくられた創造主なる神のみこころにかなった生き方なのである。 しかし、こういう判断基準を持って生きることを知らず、しかもそれで普通の生き方のように思っている生活では、段々と普通ならざる苦しみに見舞われてゆくことだろう。それはつまり、本来人間に自然に当然あって神より流れてくる生きる知恵と力の流れをふさいでいるようなものである。そんなことをしていると生きる力も活力も次第に混乱し、萎えてしまう。ストレスで動きが止まってしまう。心の酸欠で倒れてしまう。心のエネルギー不足が起こって、心の滅びを迎えることになってしまうのである。 イエスの言葉を上手に思い出そうと思えば、それなりの準備はいる。覚えていないものを思い出すことはできない。聞いてもいないのに思い出せるはずがない。学んでいないなら正確に思い出すことは無理である。それで、イエス・キリストを知り始めた人は教会へ行く。そこでイエスの言葉をしっかりと聞き学ぶという体験をするのである。教会で牧師の説教を聞くだけでも、それを聞いているときに実に色々なことを思い出し、思い起こす。そしてそれが、キリストの前に立ってキリストの言葉を聞いているときそのままの気分なのである。その思い出し方を心得ると、今度は自分で聖書を読み、学び、次第にそれを心の中にたくわえて、そして、神のことばを自在に思い出せるようになる。 これが古来からの「聖書の神を信じる人」と呼ばれる人々の歩みであり、現在も可能で、だれでもできる「神とともに歩む生活」のやり方である。それはそんなに難しいものではない。 「そしてあなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8・32)
「真理とは何か」というのは哲学者が問題にするものである。その高邁とも思える「真理」について、聖書はいとも簡単に書いているので、これには驚かざるを得ない。 「真理」などというと人生の答えや何か抽象的な悟りのように思ってしまうので、もったいなくて深淵で、そこに到達するには凡人には一生かかっても至らないように思ってしまう。しかし、聖書は実にはっきりと単純に、真理とは何かを教えている。聖書で「真理」というと、もうこれはイエス・キリストというお方を指す言葉である。 イエス・キリストの言葉や教えをよく聞いて、その教えるところをよく守って救われ、その救いの中を導かれつつ歩み続ける。そうすると、私達はイエス・キリストをさらに続けてもっとよく知ってゆくことになる。それが聖書の教えている、「真理を知る」ということである。 ここでは「真理」という言葉よりも「知る」という言葉の方がもっと重要に思える。聖書の「知る」という言葉はほとんど「体験する」という意味の言葉で、イエスを体験し始めるともうそこには真理を体験したとしか言えないような充実感や喜びがある。そしてそこで与えられる実感を文頭のみことばは「真理を知り、自由になる」と言っている。反対に言うと、真理を知る前は、私達は様々な不当な束縛の中にあり、自由ではなかったと言っているのである。どういう束縛かというと、悪しき汚れたものに私達を束縛する文化といったものや、様々な迷信。歴史的と言いつつ踏襲されてゆく悪質な伝統。さらに、自分の内に内在する、罪や汚れに引っ張られてゆくよこしまな思いなどもそうである。 私達は自分で自分を束縛するようなこともしているし、他者や文化からも様々な悪しき束縛を意識するにせよ意識しないにせよ受けている。その中には、よく分からなくても、言い知れぬ恐れを起こさせたり、ぞっとさせるようなものがあるのもわかるのではなかろうか。しかし、イエス・キリストという神の真理を知ると、私達は悪しき束縛から実にすっきりと解放され、解放感と喜びとで満たされる。バチやタタリといった、私達の文化の底にあって、無意識のうちにも私達を心の深みで支配しているものからも、全く自由にされるのである。そして、人生に新しい明るい道が開かれる。これは驚くべきことである。 わたしはまじない師をしていた人物で、クリスチャンになった人を知っているが、彼は「イエス・キリストの霊的パワーがもう他の何よりも一番ずばぬけて強いのですよ。私は以前のまじないでは苦々しいものしか得られなかった。しかし、キリストによって喜びや平安を得ることができた。」と言っている。そういう世界に住む人もイエス・キリストの力はよく理解できるのだ。いや、彼らだからこそ、そういう世界のことがよくわかるとも言えよう。神の真理はまた、この世でも真理でもある。それだけに、まことの神を信じる者がこの世を生きてゆく際、その生活の中で意外に強烈なパワーを持つことができるのである。 この真理を知る喜びをあなたも一度体験してみるべきではないだろうか。自分の力で必死になって一生かけて真理を探す方法もあるだろう。しかし、世界標準といってもよい真理があっさりと私達の前に置かれている。そして、その真理はだれでも味わおうと思えば容易に味わえるような形で、あなたの前に提供されているのである。聖書やイエス・キリストを様々な理由で否定してみたいと思う心をお持ちかもしれない。しかし、一度ここにある素晴らしい自由をためしに味わってみてから、もう一度あなたの生き方の基本方針をじっくり考え直すのはどうだろうか。
「わたしが神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」(第一ヨハネ5・13)
私達は普通、「死んだら天国へ行く」と言う。またしかし、もう一方で、「死んだら地獄に行く」とも言う。そういうものを一切信じないという人もいる。死後の世界があるかもしれないが、行ってみなければだれも何もはっきりしたことは言えないとも思う。確かに、天国や地獄が死後のものであると定義をするならば、それはそれで正しい推論だろう。 私が学生時代にキリスト信仰に導かれたとき、とても奇妙に思えることがあった。それはクリスチャンになって最初に学ぶ教材の一番はじめに「救いの確信」という項目があって、そして上記の第一ヨハネ5・13のみことばが書かれて、短い説明があったのである。救いの確信をこの聖書の言葉から持つように勧めているのである。そんなものかと思ったが、その時は分かったようで、分かりづらかった。何かドライな感じがし、戦後の日本のキリスト教はアメリカ直輸入という色彩があるから、あるいはそういう背景からのものであるかもしれないと思った。しかし、最近になってこのことの意味をもう一度深く考え直すようになった。 日本人は仏教と神道をごちゃ混ぜにした中で育っている。死んだら「神」になるのやら「仏」になるのやら、天国に行くのやら極楽に行くのやら、それとも地獄に落とされるのやら。全く分からない。お盆の際に「地獄の釜のフタが三日間開いて」と聞かされていたので、何か煉獄の様なところに行く感覚もあった。しかし、「おばあちゃんはあの世に行ってしまった」と言ったり、「星になっちゃった」と言ってみたり、「天国のおじいちゃん」と話してみたりで、死後の世界は一般的には全くつかみどころのない世界となってしまっている。しかし、キリスト信仰にもう三十年も生きている私にとって、ますますはっきりしてゆくのが「天国」の感覚である。「天国に今はっきりと入っているという感じ」と言ってもいいかもしれない。「三十年前に教会の初心者コースで学んだことはこういう世界に既にいた人々が作ったものなのだなあ。」という感慨を現在持つので、これはぜひキリストを信じて信仰生活を始めようとする初心者の方には知っておいていただきたいテーマである。 たとえば、イギリスという国は王国なので、その英語名をユナイテッド・キングダムと言う。この「キングダム」という言葉は、キング(王)が支配する国という意味である。聖書の言葉では、王はバシレウス、王国をバシレイアという。天国という言葉は「天(すなわち神のいるところ)の王である神が支配する国」。神の国も「神が王として支配する国」という意味である。 私達は「国」というとどうしても地理的なもの一辺倒に考えてしまう。しかし、土地に線を引いたら国ができるわけではない。そこに支配権が及んで、はじめて国がある。その国の主権者が「王」と呼ばれるときに、その国は「王国」なのである。したがって、聖書で「天国」とか「神の国」といった時にそれの意味するものは、「聖書の教える天地創造の神を王として仰ぎ、その支配に従って生きていること」を指す。この世に生きていることをただ単に指すわけではない。「まことの神に従って生きている」ならばその支配下にあり、神に従って生きていないなら、その王国に入っていないで外にいる。あるいは敵対しているのである。 私達は天国や地獄を死後のものとばかり思って暮らしているという面がある。温泉などにつかったときに、「極(ごく)楽(らく)な世界」を感じて「極楽。極楽。」などと言ったりするが、それはご愛嬌である。「生きながらにして、地獄のような経験」と言うが、あちこちの大寺院で見る地獄絵図は実にむごたらしいもので、本当に仏教があのような悲惨な来世を教えているのなら、人々がこの世でこんなに浮かれたような生き方をすることはきっとまちがっているに違いない。この世の楽しい誘惑と古ぼけた寺院の地獄絵図とでは人々の心の引かれ方が違うのでこうなのだろうか。現代人は「今」に生きており、「死後の世界」などどこ吹く風で生活してしまっているように思える。 聖書はその「今」の生活の中に天国がやって来るということを教えている。さらに言うと、聖書は私達が「今」、「天国」か「地獄」かのいずれかの一部にいるのであって、それがどういうことなのかを教えている。ここでは天国の話を主にするが、それと対立したものが、聖書の言う地獄であることを知っていただきたい。そして、あなたが「今」どちらにいるのかは聖書を読むとよく分かる。そして、あなたは、今いるそのままの状態で、この地上を去った死後に、非常にはっきりと「場所」の伴った天国、あるいは地獄に行くのである。 創造主なる神を私達は忘れて生活している。これを聖書は「的外れの生活(sin・罪)」と呼ぶ。この生活から一転して「目的にかなった生活」へ、すなわち、神に造られた者が神を人生の主として歩む生活に移ることが、「悔い改め」である。イエス・キリストに委ね、イエス・キリストに聞き従って歩む生活というのがこの悔い改めた生活の内容である。すると神の守りや助けを身近に体験する。それで実感を伴って、「ああ、天国にいるんだなあ」という思いが切につのってくるのである。心の内側の生活と外側の環境の動きとが、何と表現したらよいのか、実にピッタリと心の中でタイミングが合ってくることを経験するのである。奇跡的なことまで自然なことのように思えてくる。困難がないわけではないが、そのすべてが働いて益となる世界、無駄のない世界を経験する。これが天国といえばそうだろうなあと思える世界。これが、キリストを信じて年月が経てば経つほど満ちてくる生活における実感である。 「神に支配される」などというと、窮屈な感じを持つ方がおられるかもしれない。しかし私達が空気の中に住んでいると空気を意識しないでいるようなもので、そこからはずれると息苦しくなってしまうくらい、そこは快適で自然なのである。線路の上を電車が走るようなもので、こういう易しい生活方法があるのに、なぜ多くの人々は、苦労して痛い思いを繰り返し、この古くて確実で豊かな道を選ぼうとしないのかと不思議に思う。もっと分かりやすくこの道を多くの方々にお伝えしたいとますます思う。 神のご支配や神の導きに従うことは、かえって他の様々な重荷から解放されるシンプルな生き方である。そして、これは私達一人一人の心の本性にも、実にピッタリとした生き方でもあるとも思う。さらに、この生き方は、たとい、いつこの地上を去ることがあっても心配のない生き方である。それは、もうはっきりと、天国の実感を伴うこの地上での生活から、もっとはっきりとした天国に行く道であることを自他共に認めることができる素晴らしい道なのである。
「わたしがおまえを哀れんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」(マタイ18・33)
カウンセリングを学ぶ人はだれでも、相手を「受容」することを学ばされる。私達にはそれぞれ、自分なりの何がしかの価値観があり、相手の人が、私の持つ価値観とずいぶん外れたことを言い始めると、私達はついそれを否定しようとしたり、拒否反応を示したりしてしまう。相談を持ちかける方は、相手を一応信じて話しているので、聞いているカウンセラーが受容しないで否定的な反応をすると、もうその信頼感がなくなり、それ以上打ち明けて話したいと思わなくなる。それで、カウンセリングでは、話を聞く役割のカウンセラーはそんなことはしない。でないと、そこに生じているのは「カウンセリング」でなく「指示」である。他人に指示されて、人が本心から動くためには、そこに「深い信頼」という土台が必要なのである。信頼感が育成されていないのに「指示」しても、それはそんなに効き目がない。むしろ反発があるかもしれない。 カウンセラーは職業的に相手をありのまま受容する訓練をしているが、一般的に言って、人をありのまま受け入れるということはなかなか難しいことである。自分と関係のない人なら受容できても、自分に影響が及んでくる身近な人々をありのまま受け入れるのは至難の業である。離婚に終る結婚生活の失敗の理由に「性格の不一致」というのがある。これはまさに「相手をありのまま受け入れられませんでした」という言葉の言い換えである。身近な人を受容するということは、どれほど熱烈な恋愛をし、どれほどお金をかけて結婚式をキリスト教風にしてみたところで、甚だ難しい人生の難事である。あれほどベタつくアメリカ人の夫婦は今、1/2以上の確率で離婚する。日本では離婚状態を表ざたにしたくないので離婚率の統計は結婚の数の約1/3であるが、残りのあとの半数も「別れたいのに正式には別れられないジレンマの状態にある」と聞いたことがある。 五〇年も六〇年もの間、性格の一致しない連れ合いとけんかしながら死ぬまで過ごすというのは、そのまま地獄のような生活ではないか。社会が豊かになると、人々は旅行に、演劇に、カラオケにと、気の合うもの同士で出かける。様々な気晴らしをしなければ過ごせないほど、私達は人間関係に疲れ切っているのである。気晴らしに行った習い事で、また複雑な人間関係の中に入ってしまって、悩んでいる人の話を聞かされたことがある。人間関係で悩む悩みの種はこの地上では尽きることがない。 キリスト信仰を持つと、私達の生活は「神にゆるしていただいた」というところから始めることになる。「イエス・キリストが、私の過去の様々な罪の罰の身代わりに十字架について死んでくださった。それで、私はすべての良心の呵責、罪責感、重荷、思い煩いを全くイエス様にお委ねし、罪赦されて、スッキリされて生き始めます。」こう言うのが真正なキリスト信仰である。そして、さらにその上に、思いのほか大きなおまけの語りかけがある。「私があなたをこんなに犠牲を払ってゆるしてあげたように、あなたも他の人を私に免じてゆるすのだよ。」とキリストが言われるのである。それで、クリスチャンにとって、他の人を赦すという問題はどうしたらよいのか迷う様なことではない。もう、キリストのゆえに、相手を赦し、受け入れ、平和を保ち、愛し、助けるしか道はないのである。救い主キリストから「赦す強制」つまり「人を赦せ」と言う命令が与えられているということが、私の人生において実にかけがえのない大切なものなのだということを強く思わされる。 私達は、赦して受け入れなければならない人が自分の前に現れる時、神の訓練を受けることになる。そして、最初は赦すことなどとうていできなくても、次第に、できるだけ早く赦したほうがじっくり赦すよりも赦しやすいと体験的に分かってくる。また、あっさり赦すほうが、ねっちり赦すより自分の心の負担が軽いことも分かる。その結果、早くすっきりと人を赦そうという、実にすがすがしい人生を送れるようになるものである。 日本語には因縁とか因果という言葉もあるが、怨みをながながと持ち続けても自分の体を悪くするばかりである。また、怨むのにも精神のタフさや集中が必要で、何かどこかにしこりや肩こりのようなものを残さずにそういうふうにし続けられるようには思えない。こういうことが原因で自分が病気になったり命を縮めるという人は、結構いるのではないかと思う。「赦せない」と思うことのは、本当に始末の悪い私達の心の動きである。 自分は少なくとも赦せるものになろうと決断することが、神に従うことである。ただ、それは正しい道だとは思うが、そんなに簡単にできることでもないだろう。ひどい仕打ちや長く続く悪しき結果などに直面すると、人を赦すことは割に合わないように思えることがあるかもしれない。しかし、聖書は「赦せ、赦せ」と教え続けている。そして、神は奇跡のように私達に「赦す力」をお与え下さる。それで、神の恵みによって人を赦すことができるのなら、同時に、赦す自分自身の心も救われる。 私達がある人を赦したからといって、赦された方の人が神の前に正しいということではない。聖書には「復讐は神がすることである。」(ローマ12・19)とあり、本当の裁きは神が担当して下さる。また、そのために国や警察や裁判所はある。あなたに何か悪しきことをする人は、他のところでも同じようにそうしている。その人のライフスタイルがその人自身に災いをもたらすとも言える。そして、神は罪を犯すものを裁きたもう。その人が悔い改めないならば、神は必ず裁く。この世で裁かれていないように思えても、死後には必ず裁く。神に目こぼしはない。だから、私達はむやみに自分で仕返しを考えないことである。それを踏み込んで行なうことによって、今度は私達の方が神の裁きを受けることにもなるかも知れない。人から迷惑を受け、そのあおりで、自分まで神から裁きを受けねばならぬような道をたどるとしたら、これは人生の大きな損失ではないか。むしろ、人に迷惑をかけられても、そこから自分自身が神への信頼と神への従順を学び、人を受け入れて、人を愛する訓練を積んだほうが何倍もよいではないか。それをすることができないのは、私達の内に根強く住みつく自己中心、つまり「罪つみ」のせいである。神にこれを取り去っていただき、赦す力を与えていただき、そして私の魂をさらにきよめていただかねばならない。 かくて話はイエス・キリストの十字架の救いの話しに戻ってくる。「主よ、この赦すことのできない罪人つみびとの私を憐れんで下さい。」こう祈るといいのだ。赦すことは「私達自身の力で」できることではない。ここには「神わざ」が必要なのだ。その神わざにあずかるにはどうしたらよいのか。もはや、その相手の人を見ないことである。キリストばかりを見る。キリストの言葉ばかり読む。神にばかり心を向けて祈る。これがキリスト信仰である。 私達の心がキリストの赦し、恵み、愛で豊かにされるなら、不思議なように私の心から怨みや復讐心も取り去られてゆく。これからは怨みや裁きの心を私達の心に根を生やさせないようにしよう。そういう思いが起きたならば、すぐさまキリストを呼ぶのだ。このようにして、私たちは知らぬ間に一歩一歩と、神が尊いことにお用いになる器へと育てられてゆくのである。 「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。」(黙示録22・14)
文明が進み、地上の生活がかつて程の苦痛に満ちていない現在。私達は生活のために働く一方で様々な享楽にも囲まれて生きている。家の中には、いくつものリモコンが散乱し、テレビが、CDが、エアコンが、マッサージ機が、私達の指示を待っている。携帯電話のボタンを押せば友人と話ができ、パソコンのスイッチを押せばメールもインターネットも可能だ。私達は毎日の日常生活に忙しく、「自分が死ぬ」ということなど考えることもできない。死とは何か別世界のことのようであり、夢、幻のようである。テレビゲームをすれば主人公は何度でも生き返り、パソコンが止まったのならリセットをかけられる。しかし私達のいのちはそういうわけにないかない。一度限りの、一つだけのいのち、人生である。死が恐くなくなったのだろうか。そうではない。みな必死に、巧妙に、死を忘れよう、気づかないでおられるならそうしておこうと思っているのである。 こんにち、自分の家の畳の上で死ぬ人は少なくなった。老人も病人も、みな病院の集中治療室で死を迎える。機械と薬と技術の助けを借り、一分でも一時間でも長く生きられるようにと、懸命の処置を受け、計器に囲まれて死を迎える。死は依然としてそこにあるのだ。死は私達の前に大きな口を開けて待っている。今から、100年後、現在地上で生きている数十億の人々は、ほんの少しの長寿の例外を除いては、もう誰もいない。冷静に考えるなら、一人残らず皆、死に向かっているのである。 死後、どこに行くのか、はっきりと言える日本人がどれだけいるだろうか。皆が死ぬから、私も死ぬ。そういう風に悟っているのだろうか。「死後の裁き」などと言っても誰も聞く耳を持っていないのだろうか。 聖書は人間が誰しも死を恐れていると記す。それは一人一人が神のみこころにそむく罪を犯し、各自の心がそれが痛いほど分かる罪責感を持っており、死んで神のみ前に出ることはすなわちその罪の裁きの場に出ることなので、死が恐いのだという。現在多くの人々は災害の到来を恐れている。地震や土砂崩れなどで、痛みを伴う死が突然訪れることを恐がっている。しかし、死そのものや、死の後に来るものを恐れる人は減っているのかもしれない。最近は仏教もあまりこのようなことを教えない。また、唯物論的な教育を受けると「死後」の世界というものがその存在そのものから否定されるようになった。火葬されると骨だけが残るが、それがどれ程の存在であるのかとも思う。霊の存在に社会が懐疑的なのもこの状況を加速している。コンピューターゲームや映画の中に、悪霊のようなものはたくさん出てくるが、あくまでの仮想のゲームの世界と思うので、その極端なおどろおどろしさがかえって現実感覚から離してしまうのだろう。ゲームや仮想の世界では想定しても、現実の世界での霊の理解や、死と死後の世界の存在感は、ますます希薄になっている。「死後の世界なんて、現世の生活と関係がない」こう思う人が多いのだろう。しかし、これこそ現代人の最大の誤解と私には思われる。 私達は放っておいても、一つ一つの物事の意味や目的を、自然に考えはじめる生き物である。すべてのものの原因と結果を考えるのが人間である。そして、私達が最も大切とする自分自身のいのちの意味や目的についても、当然自然に考えるに至るものである。もし、私達の心の叫びや良心の叫びを強引に否定するのなら、「私のいのちというものは、この地上で生まれてから死ぬまでで終りである。その後は何もない。だから、この地上ですべてのつじつまを自分なりに合わせて生きよう。」と考えることもできよう。こういう立場に立つある著名な心理学者は、この世に生きる人間の基本的な必要を、物質的必要から精神的必要までランク付けをして、その最も高次なものとして「自己実現」というものをあげた。自分の願望をやり遂げるところに人生の最高の気分が存在するとこの学者は言うのである。たとい、そこに深い良心の呵責や罪の痛みが心の底に残っていても、この達成感こそ最大の喜びと言うのである。 聖書は、私達一人一人のいのちが神によって与えられたものであり、私達一人一人が、神のみこころの中に生きたかどうかを、この肉体の死の後に問われると教えている。私達の存在の本質はからだをもった霊(心)であって、アダムの堕落以来、この地上のからだは朽ち果てるものとなってしまった。しかし、神の特別の恵みにより、霊(心)がキリストによって救われる道が残され、救われた霊(心)は地上の肉体的な死後、天国においてよみがえらされ、「永遠のからだ」が与えられると説く。ちなみに、救われない霊も、滅亡してしまうのではなく、ともによみがえらされて、「永遠の滅び」あるいは「永遠に火が消えず、うじが尽きることがない」という永遠の裁きの中に入れられることが聖書に記されている。これが地獄である。人が肉体的に死んだらそれであなたのすべてがなくなってしまうなどという、そんな単純なものではないと聖書は教える。いや、すべての宗教が、多かれ少なかれ、死後の世界の実在性を証言しているのだ。 この事実は、私達の地上の今の人生の生き方に挑戦を迫っている。そのつどそのつど何とかつじつまを合わせて生きようとしている私達。しかし神は、私達がいつ死んでも良いように、自分の生き方が永遠の前で通用するかを常にまじめに考えよと迫っているのである。 死後の世界を全く否定している人であっても、「ひょっとしたら死後の世界があったらどうしよう」という一抹の不安をぬぐいきれないのではないだろうか。ある時はそれが羽目を外した生き方の歯止めになっている。しかし、それだけではまだ十分ではない。死後、神の前に出ることがはっきり分かるとともに、なおかつ、そのことのため十分に準備しながら生きようとするのが正しいのだ。そして、その生き方の極意は「私の身代わりにイエス・キリストが死んでよみがえって下さり、そのイエスが私の内に入って住んで導いて下さる。」ことを信じるところにある。キリストが私のすべての罪・罰・裁きを身代わりに引き受けて下さるので、キリストを信じるものが裁かれない。そうすると必ず天国に行ける。そのキリストが地上で導き続けて下さる。 つまり私達は、神の裁きを前提に生きる方が、罪の事実にも正面から直面できるし、赦しもはっきりするのだ。そうすれば生き方もはっきりしてくる。生きる喜びも大きくなってくる。罪によるうしろめたさも全く解消され、生き生きと生きる力もわいてくる。そして多くの人が不本意ながらもこだわりを持っている死をはじめ、たたりや、因習などの悪霊の呪いの数々のようなものからも全く自由になってゆける。 人生最大の敵・危機は「死」である。しかし、イエス・キリストは死後、三日目に「死よりよみがえり」、死を葬ってしまった。キリストを信じるものは、永遠のいのちを持ち、裁きに会うことがなく、死からいのちに、今もう既に移ってしまっているのである。(ヨハネ5・24)
「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(第一ヨハネ4・18、19)
愛という言葉が氾濫しているわりには、「愛」に失望したり失敗している人が多いのではなかろうか。愛して育てたはずの子供が非行に走り、愛して結婚したはずの二人の関係が破局に終り、互いの間に愛があったはずだったのに、傷ついて終った人間関係などというものは、身の回りにその実例が山のようにあるのではないだろうか。 「愛」という日本語が表わす意味の守備範囲の広いのも、問題を大きくしている。教会で説かれる神の愛も愛なら、スナックで酔っぱらって歌うカラオケの曲の中にも、愛は頻出する。ラブというハンバーガー店もあれば、同性愛などというものまである。英語の古い聖書ではこの原語をラブと訳さず、チャリティーと訳している。フィラデルフィアとは「兄弟愛」という意味である。ロンドンのピカデリー広場にある愛のキューピットは「エロスの像」と呼ばれている。それは天使が弓を射ようとしている銅像である。「愛しているから君が欲しい」と叫ぶ若者の歌がある。結婚しているものから見ればそれは性欲の高まりだけのように見え、そのまま結婚するのは危ないからよしたほうがいいよ、とアドバイスしたくなる。しかし、愛の名のもとに二人はお互いを説得し結ばれる。そして多くの場合、なぜか分からないまま、しばらく後に、引き潮のような愛の減退に襲われる。そして「もう愛せなくなっちゃた。」と言う。本物の愛とは果たしてそんな程度のものなのだろうか。 聖書の言葉の中で、日本語で愛と訳せる言葉はいくつもあるのだが、「神の愛」に限って用いられている言葉は、ただ一つしかない。それは厳密に意味が定まっている言葉で、「アガぺー」という。私はこの「神の愛=アガペー」というものを理解して、私達の日常生活で使っている「愛」という言葉の貧しさを知った。私達は心を込めて正直に「愛」しているはずなのであるが、この私達の「愛」にはいつも行き詰まりがやってくる。「愛」の必要はわかるのであるが、「愛」だけではどうしてもやっていけない甚しい限界を感じる。「愛」は必要だが、それを打ち消してしまうようなものが、自分の内に内在していることを感じるのである。 「愛する人のために死ねますか」という言葉が、何かの宣伝文句にあった。あなたならどうだろう。それは自殺行為のように思える。本質的に私達は自分を人のために捨てることが著しく困難なのである。聖書はなお言う「たとい自分のからだを焼かれるためにわたしても、愛(アガペー)がなければ、何の役にも立ちません。」(第一コリント13・3)やけくそと投げやりな心で命を投げ出したところで、それは「愛」によるのではないと言われているのである。またこれとは反対に「愛さえあれば」と思って、つい自分の考えを人に押しつけることもある。親は子のことを愛するゆえに色々な押しつけもする。独りよがりの善人は他人の事情も知らずに、自分の都合で押しつけて良しとする。「愛という漢字は、そうなノー、そうなノーと心から受け入れる、と言う意味です。」と言う話を聞いたことがある。たしかに、「心」と「ノ」と「受」けるという字が組み合わさってできている。少なくとも愛は押しつけがましさとは反対の、相手の立場に立って考えるものだと理解するのが正しいと思う。 聖書の愛は、愛に困難を覚えている私達一人一人を神が愛し、神のひとり子イエス・キリストをこの世に遣わして、私達の問題と罪と重荷のすべてを彼に担わせ、私達の身代わりに十字架につけて裁いたことにある。ここに、神の私達への一方的な深い愛があらわされたのである。この愛は、私達の完全に破綻している部分への、神の深い思いやりに由来している。しかも、それは、私達が何か努力をすることなのではなく、神が一方的に与えて下さる赦しと恵みを受け入れよという招きである。そして、この愛に接した人は「愛」というものがどういうものかわかる。そして、自分自身の力ではそれまでできなかったことが、ただ神の導きのゆえにできるようになってゆく。与えたり、ゆるしたり、受け入れたり、忍んだりすることができるように、一歩一歩変えられてゆく。「神のアガペー」こそ、私達の愛の源泉であり、方向性であり、模範であり、力である。これを「神の愛に生きる」という。 三浦綾子さんの言葉に「神様は私達に『愛せる』とは言っておられない。けれど『愛しなさい』とは言っておられる。」というのがあった。そう、私達が「愛せる」などと思うのは、私達の愛の浅さをもう一度はっきりと自覚しそれを神の愛に比べてみるなら、まことにおこがましいことがわかる。しかし、神の本物の愛を知った人は「神の恵みと導きによって、愛してみよう」とは思うことができる。そしてその結果は、「やったあ。愛せた」というようなものではない。「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。」(ルカ17・10)という言葉で終わるようなものなのだ。しかしもし、私達がこのように生き始めることができるなら、愛を大いに必要としているこの世にあって、私達は聖書の命令である「愛しなさい」をいくらか生きたことにはなるだろう。 歴史上の愛の人といわれる人々も、結局このような愛に生きたのである。ナイチンゲールやマザーテレサもこういう愛に生きたのである。それは彼らの伝記を読むならばよく理解しうる。そしてあなたも、この神の愛に生きるなら、歴史に残るかも知れない偉大な愛の人となれる可能性をたしかにあなたのうちに宿して生きているのである。
「目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます。」(マタイ23・26)
信仰というと、何かお題目を唱えたり、お参りをしたり、また特別な戒律を守ったり、何らかの作法を習得したり、集団マスゲームを行なったりするもののように思っている人もおられるのではないだろうか。「宗教をする」という言葉もある。私は甲子園に阪神・巨人戦を見に行ったことがあるが、あの野球の応援合戦の渦の中にいて、自分が狂信的な宗教集団の中に突然舞い降りた異星人の様な感じがしてしまい大いにとまどった。聖書の世界を知る人は、ああいう日本流の一糸乱れぬ応援の強要のようなものに、この世の最後に出現する反キリストを感じるかも知れない。それは、人々を強制して従わせる悪の支配である。私はその時、異様な悪魔的な力や雰囲気のようなものをさえ感じてしまった。失礼ながら、「ああ、こういう雰囲気が好きな人もたくさんいるのだなあ。」という思いに包まれてしまったのである。 若者はロックコンサートで、飛び跳ね、手を上げ、熱狂的に一体感をつくりだす。人間は本能的にそういう一体感や陶酔感を求めているのかもしれない。しかし、ヒトラーがそういう方法を上手に用いてナチズムを広めたように、どこかにあの大群衆の騒ぎをプロデューする人々がいて、それでお金もうけをしているのではないかという冷めた目で見てしまうのは私の誤解であろうか。ブームはつくられ、仕掛けがなされ、そして群衆は一つのそろった行動を何の疑問もなく行なう。異様なことですら、知らず知らずに行なってしまう。娯楽といえばそれまでなのだろう。一人一人が他の大切なことを考えることを停止してしまっているのでないならば、それも良いのかもしれない。 「宗教」というと「分からないことをとにかく信じること。」と考える人がいる。「ただ信じればよい。」という人もいる。そういうものもあるのかもしれない。しかし、信じる対象がきちんと信頼に足るかをどんな時にも考えるべきだろう。あるいは、何をどう信じるのかの理屈と内容が、明瞭である必要もあると思う。しかし、感覚的なものを体感してわかった、興奮してわかったというようなものなら、少し冷静に考える時間が必要であると思う。一人一人が知・情・意の全人格で考えて納得して、それを心から行なっているというのならば、私はそれを批判する気はない。 しかし、教えはメチャメチャ、やっていることはインチキ、集会そのものが集団催眠の様な宗教も現実にはある。私は学生時代、ある新興宗教が派手に伝道しているので、試みにその大集会に出たことがある。政治学のゼミの学びをしていて、ヒトラーの政治宣伝という本を読んだとき、その新興宗教の集会はあのヒトラーの政治宣伝の原理を真似ていることがよくわかった。講師の話の最中にうしろの方からわざとらしい喝さいがあり、会場の雰囲気がだんだんそれらしくもり上げられてゆく。ずいぶん作為的で不自然な集会だなあと学生なりにあきれたものである。ただ、自分自身を客観視できない人だとこういう雰囲気はアブナイなと思われた。 キリスト信仰はそういう集団催眠のようなやり方ではなく、現実の問題を考えることから入ってゆく。特に、人間の心の内を冷静に考えることから入ってゆく。外見や外観は、まあ、まずどうでもいいのである。作為的なものをぬきにして、冷静に、しっかりと聖書を正しく読む。納得したところだけ進む。納得しないなら、そこで時間を費やす。そして、「何を」「どう」信じるように促されているのかをしっかりと知る。キリスト教の前提は二つしかない。「神がこの全地全宇宙をおつくりになった」ということ。それに「神がこの全地をどのようにつくり、今どのように考え、どのようにしようとしておられるのかを記した書物を歴史の中で人間に与えた。」ということとである。その書物が聖書である。 この二つの重要ポイントのさらなる証明が、イエス・キリストというお方である。彼の奇跡、彼の話を聞くときに、私達は神の御子イエスが私自身に個人的に、また具体的に語りかけて来られるのを体験する。そして、一人一人が個人的な応答と決断をもって、自分の罪を言い表わし、神に創造された事実に基づいて、神のみこころに従い、イエスに聞いて生きることを選択して生活してゆくのである。 キリスト信仰は何かのやり方の表面的な「お作法」ではない。イエスの教えに心から向かい、イエスに心を変えられると、何らかの生活の変化がその後についてくるという教えである。それがクリスチャンの信仰生活である。聖書には、神の導きを受けている者は、聖書を読むこと、祈ること、また、ともに集まることなどが教えられている。それは儀式としてということではなく、神が私達の心を導いて下さる中での具体的なアドバイスの一つ一つである。私達は、神に救われ神に仕えていることを他の人に示し分かつようにも勧められている。 キリストを信じると、ちょうど赤ん坊がお母さんのおっぱいに吸い付くように聖書を読みたくなる。聖書に親しめば親しむほど私達は自発的に神に一歩一歩従いたくなる。そうすることが本当によろこばしくなるのである。それは儀式や形式に従うのではない、キリストに従う形がそういう外観を結果的に伴うのである。 クリスチャンに「あなた、宗教やってるの」と言うと、けげんな顔をされるだろう。それは「宗教」のようであって、宗教ではない。何も無理なことや不自然なことをやっているのではないからである。ただ、神と、神のことばであるイエス・キリストに従って、一歩一歩生きると、楽しくなってくるだけのことである。体験のない人には一言で説明のしようがないのである。信仰をもって生きることが、神の前に正しい生き方だと思うからこうしているとしか言えない。「人間はどう生きたらよいのか」という大問題に、クリスチャンは聖書に出会ったことによって非常にスッキリした答えが与えられた。しかもそれは、わけの分からない儀式や風習を行なうことではない。全部意味も内容もわかる、たいへん明瞭でやりやすく、実体のあるものである。これを「宗教」と呼ぶのはあまりにもそらぞらしい。「書物の中の書物である聖書に聞いて生きる。実にまともな、世界標準のわかりやすい生き方。」とでも言えばいいのだと思う。
「忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終ることがありません。なぜなら、私達に与えられた聖霊によって、神の愛が私達の心に注がれているからです。」(ローマ5・4、5)
高校生の頃、「希望」という歌が流行っていた。その歌の雰囲気がなぜかその頃の私の心の趣にあっていたようで、時々歌ったものである。「希望という名のあなたを求めて、暗い夜更けに、また汽車に乗る…」だったと思うが、今にして思えば、希望を歌っているにしては何か真っ暗な感じがする歌である。受験生だったし、学園紛争華やかなりし頃だったので、破壊の先に希望がありそうでなさそうでという感じがよくでていたのかも知れない。「希望」とは「希望的観測」という言葉があるので、物事を少し明るく見ていこうというくらいの言葉だと思っていた。 聖書を学んで「希望」という言葉に行き当たると、これはもう希望的観測どころではない。聖書の「希望」というのは、「神からそれが与えられるという約束がはっきりとなされているが、実際に全部が与えられるのは私達から見て時間的に将来なので、ぜひ楽しみにしっかり待つように。」という風な言葉である。われわれの目には将来などというと実に不確かなもののように思うのだが、「全知全能の神が約束する」となると、もう時間など何の関係もなくなる。なぜなら、神が時間をつくり、神は時間を越えている絶対者だからである。 それで、聖書が「希望」という言葉を用いて説明する時は、神に従って歩んだ人の信仰生活の最終的な報いについて語るときである。「希望は失望に終ることはない」というのは、神の約束は絶対に空しく終ることがなくきちんと成就され、最後の最後には豊かに報われる、という意味である。キリストを知り、キリストを信じて歩んでいても、隣の人と同じような災いや困難が起こることがある。それは神のみゆるしの下に、神の愛の配慮の中で私達に与えられているということを聖書から知ることができる。それで私達は、失望や怒りで爆発してしまうようなことはせず、神のみこころと導きとを覚えておごそかに忍耐をする。すると、その人の性格、品性が次第次第に練られてくるのである。上っ調子な人物も、次第に正しい重々しさを持つように変えられてくるのである。これは案外自然な形でなされる。すると、それまでのように物事に一喜一憂する生活態度でなく、「神の約束なら必ず成就する」と悠然と構えられる大人の風格が徐々にできてくる。これを聖書は「希望に生きる人」と呼ぶのである。さらに、そのような人を、「聖霊に満たされた人」とも聖書は呼んでいる。聖霊に満たされるというのは不思議な感覚で、そこではちょっとやそっとの揺さぶるものが内外にあらわれても、容易にぐらつかない心ができる。冷静である。そして静かに安定して、将来の報いと祝福と救いの完成とを見すえる。目と心は目前のものに向かわず、永遠に向いているのである。 聖書の教える「希望」は、時の経過の中で上がったり下がったりする不安定なものではない。それは真実な神を見、永遠を見ているので、目先のことごとの動きに揺るがされない、人生を支える強力な支えとなっているのである。 短いしばらくの間の不確かなこの地上の生活に比べ、永遠の生活の方がもっと確固として不動のものであるということが、聖書の「希望」という言葉を学ぶ時、はっきりと浮かび上がってくるのである。
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしが、あなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14・27)
平安京というのは、大陸から到来してきた異国の人々(多分昔のキリスト教の一派の影響を受けた人々ではないかという)によって造営されたという話を聞いたことがある。はるか1200年以上も前、「平安」というまことに聖書的な言葉が日本にあったことを考えることが嬉しい。 平安とか平和とかを求めるのは、人の心の強い求めではある。しかし、私達の平安は実にしばしば破られる。キリストは「わたしの平安」を与えると言う。「キリストの平安」とか「世が与える平安」と言うものは、どういうものを指しているのだろう。 私達が平和という時、それは一つには戦争がないということだろう。いつでも、この時点でも、世界には約二〇〜三〇の戦争があるのだそうだ。そこでは人々は銃をもって向かい合っている。一つの戦争が止むと、別のところでまた別の戦争が始まる。二〇世紀だけで数百の戦争があったと聞いたことがある。平和を求める私達の心とは裏腹に、悲惨な戦争は歴史を通じて絶え間なく起っている。一体何が難しいのでこうなるのだろう。 平和は、平和を愛する平和な人の平和な心から始まる。これは正しい順序だろう。キリストは「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て。人を汚すのです。」(マルコ7・20〜22)と言っておられる。不思議に私達の内側から戦争の原因が次から次へと出てくるのである。そうするとこう言えるのではないか。自分の内に本当の平和、平安を持つと、少なくとも私から戦争を始めることはなくなるだろう。そして、この内なる平和をみんなが持てば、ずいぶんとこの世は平和になることだろう。 では、キリストがお持ちの「わたしの平安」とはどのようなものだろうか。それは、キリストが父なる神との間に持っておられる平安のことと聖書は言う。つまり、イエス・キリストは、万物の創造主なる父なる神と、全く心を一つにし父なる神に従うという愛の交わりと従順の関係におられるので、その関わりにおいて平安なのである。そして、全知全能のまことの神と平安な関係をお持ちであるということは、そこに完全な平和・平安があるということである。ヨハネ16・33ではイエスは、「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなた方がわたしにあって平安を持つためです。」と言っておられる。私達が持つ平安は、私達が自分から造りだす平安でもなければ、努力して保たねばならない平和条約でもない。「わたしにあって平安を持つ」と語っておられる平安なイエス・キリストと一緒にいるので、その結果与えられるイエス・キリスト由来の不思議な平安である。 平和とか平安というものを、人間同士の関係や問題として考えていると、落とし穴に陥る。結局それは不確かで変わりやすい人間同士の約束にすぎないからである。しかし、永遠に変わることなくしかも約束にご真実である神と私とが平和を持つことができるなら、もはやそこには動かない平和がある。実はこのことこそが、神が与える救いの内容なのである。 旧約聖書のキリスト預言では、主イエスは「平和の君きみ」と預言されている。(イザヤ9・6)キリストが来られるということは、平和の支配者が来られるということであり、キリストを主とし、王と崇めて生きるということは、キリストにあって心の平安を持ち、そしてキリストの与える平和で、まわりと平和な関係を持ち始められるようになることを言っている。 まず私達は「神との平和」から始めなければならない。平和の支配者であられるイエス・キリストの平和・平安を自分のものとし、そののちに自分のまわりに平和を築き上げてゆく。人間同士の平和というのは、互いに平和を保とうとする意志がなければ保てない。一方が平和を破るならもう平和はそこにはない。だから、私達はあまり大上段に振りかぶって平和を論じないほうがよいと思う。神から与えられる平和な心で生きる一人一人がつくられてゆくことが大切なのだ。あまり自覚のない多人数で「ここはひとつ平和にやりましょうや」と言ったり、平和な心を持っていない人同士がいくら平和にやろうと思っても、それはごくしばらくの間だけの、かりそめの平和にすぎない。 しかし、イエス・キリストの平和を持つ人は、その中でもよい働きを進めてゆくことができる。互いに信頼を育み、平和をつくる柱となってゆける。だれでも平和な人が好きなのだ。自分が平和をつくれなくても、それでいいと思っている人はまれである。 平和の作り方と平和に生きる秘訣とを学びたい人がいるだろうか。イエス・キリストに触れ、彼が教えておられる平和・平安の持ち方の秘訣を学ぶとわかるだろう。その本物の平和は、私達を創造し、私達のいのちを今導いておられる神との平和がイエスを信じてあなたに与えられるその時に、あなたの心に、即座に、確実に満ちあふれるのである。
「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。」(マタイ6・25)
キリスト信仰には、心配はいらない。必要なのは勇気である。思い煩いはいらない、必要なのは神への信頼である。神を知らない、信じないという方にはわかりにくいかもしれないが、神を信じるというのはその存在を信じるだけではない。聖書には「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11・6)とある。神を信じる際には、神に求めたら神がちゃんと適切にその求めに報いて下さるのだというところまで、信頼することを求められている。当然のことではある。そして、そこまで信じよというのだから、当然のこと神は、私達の求めに具体的に答えて下さるのである。これによって人は神の実在を自らの体験として知ることができる。 聖書の中には、このような信仰が与えられて生きた人々の実例が、たくさん登場する。また、それと同時に、そこまで信じることができなくて失敗をしたり、回り道をしたりした例もずいぶん登場する。キリスト教の歴史においてもそうであり、また一人のクリスチャンの歩み、体験、人生経験においてもそうである。キリスト信仰を自分なりの方法でやってみては失敗し、頭を打ち、また繰り返し、ようやく気がつくのは人生の晩年になってからという人も多い。聖書がはっきりと、神に委ね神にしっかりと信頼して生きるより他に人生を生きる良い方法がない、と言っているにも関わらず、不思議なように、私達は他の面倒なやり方に手を出し、そして、失敗し、失望し、長い間かかってやっと単純な真理に到達する。 20世紀前半のアメリカの大金持ち達のその後の末路をたどった調査というものを見たことがある。いずれも一代で財をなし、名の売れた人々である。若くして成功してもその繁栄のピークは長く続かず、自殺をしたり、破産をしたり、子供に大きな問題が起ったりして、のちのち散々な目に会っている人の多いことがわかる。私達が共通して崇める著名人達の末路がああいうふうになる確率が高いのなら、平凡な暮らしの方が良いのではないかと思ったほどである。いつの時代でも大金持になると、なにかしらの裁判に巻き込まれ、警察のご厄介にもなり、人にうらやまれるだけではなく、ねたまれ、うらまれ、多くの相続人の遺産相続の争いにも生前から巻き込まれる。世間の目も必ずしも暖かいものばかりではない。あまりにも華やかさを求めすぎて、全く予想外の混乱に巻き込まれる人の例は今日もイヤというほどある。謙遜になって神に委ね、神に求め、神の導きの中にあって与えられたものを喜び、そしてますます神を崇めるという落ち着いた、心ゆたかな生活を求めるべきである。キリスト信仰とは、まことにそういうシンプルライフを生きることへの、わかりやすいおすすめなのである。 神に任せるとか神に委ねるとかいうと、何かとても頼りないことのように思うかもしれない。しかし、あなたそのものも、神につくられたのだ。あなたの心臓が動き血液が回っているのは神の直接のみわざである。その巧妙さは見事と言うしかない。それに引き換え、私達はパソコンのコードを正しく接続することすらままならない。創造主なる神の語りかけの前では謙遜になろう。そして、神の声に自発的に耳を傾けて正しく聞き、任せ、委ねる者になろう。それがまことの神のみこころに生きることなのである。あなたは、あなたのお父さんがあなたの生活費を稼いで支えてくれたことを覚えているだろう。小学生の時にあなたが、「お父さん、家の経済は大丈夫ですか。僕が働きましょうか。」と言ったりしたなら、お父さんはかえって気分を悪くして、「私が養うと言っているのに、お前はそういう簡単な信頼ができないのか。もっと勉強しなさい。」と言われたことだろう。 全知全能の神は、あなたに本来すべき使命や仕事があり、それに集中するようにと言っておられる。神が責任をもって心配して下さるという領分にまで勘違いして入り込み、しかもその一方で、自分の務めはおろそかになるというようなことはないようにしたいものだ。
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ41・10)
人間誰しも一生のうちに神を求めたくなるようなことがやってくる。苦しみ、不安が人生を襲うとき、私達は全能の助け主が一緒にいてくれたらなあと思う。「難破船の上に無神論者はいない。」という言葉を聞いたことがある。もう「神頼み」しかないというわけである。人生の嵐といってもそれが一生涯続くことは少ない。いや、不思議に晴天の日がやがてやって来る。人間は本来神を信じ神とともに生きるようにつくられているので、人生で苦しみがやって来ると、神に助けを求めようという考えに進んでゆくのは自然な心の動きでもある。しかし反対に、人生によいことが続くと、神に大いに感謝をささげようという風に考える人は少ない。繁栄の中で人はかえって神を忘れ、目に見えることに満足し、自分の手腕を誇り、幸運に慢心する。われわれの幸運と神信仰とは、こう考えると反比例していることになる。しかし、時たまこの全く逆も見る。すなわち、幸せなときに教会に来ていて、人生の苦難がやって来ると教会に来なくなる。牧師の目から見るとこれはたいへんもったいないことをしているので、非常に残念なことなのだが、事実である。この人は、幸運なときに神を信じていたようには見えているが、本当は形ばかりの信仰で、神を忘れてしまっていたのだ。それで不幸がやって来たときに、その神を忘れた状態のままで、その問題に対応しようとする。実に残念な話だが全く的を外している。このような現象は一体どのようにして起こってくるのだろうか。 「困ったときの神頼み」という言葉があるが、これはキリスト信仰を大いに誤解させる。困ったときに神に頼む人は、普段ある程度まともに神を意識している人だと思う。現代人はそれすらなくなっているように思える。困っても神には頼まず、お金に、自分に、人に頼る。牧師である私の経験では、人生の問題に困って、教会に来て信仰を持ちはじめ、その信仰を保ち続ける人よりも、何気なく教会に来て、ゆっくり学んで、落ち着いて信仰を持つ人の方が、信仰が長続きしているように思う。困った状況の中で信仰を持つことは大切で良いことだが、その信仰の内容を落ち着いて真剣に理解しておかなければ、一時的な感情の高まりに終ってしまう。それは多分、信仰の入り口を学んだのではあるが、教えの中身の充実した部分を理解しないからである。信仰の本質とは、神との不断の交わりにある。雨が降っても陽が照っても、神がそこに伴って導いて進んで下さり、落ち込みからも傲慢からも救い上げて下さるということである。人間は心の落ち込みを経験したくないのでそれからはすぐに去ろうとするが、もう一方の傲慢の方は我々の自己中心という本性に合っているので、こちらの落とし穴の方が実は恐いのである。 救われているということは、いつも神がともにいて導いて下さっているということをわかって生活することである。困難や苦難がおそっても、また幸運や成功がやって来ても、すべて神の御手よりやって来ているということがわかるので、それに対してどのように反応したらよいのかを、神の導きとみこころに沿って考える。すると、困難には忍耐を、幸運には謙虚さをと神に教えられ、神の導きを得て素直に反応していけるのである。 ところが、私達は逆をする。困難には神を呪い、幸運には自分を誇る。この「反対」を行なってしまわないというところが、神に導かれているかどうかの違いである。神は一方的にいつも愛の導きの手を伸べて下さっている。私達はただそれに聞き従えばいいのだ。どういう風にしてそれを知るのか。祈るのである。心を落ち着けて、委ねる心で祈る。そして、聖書を少し読んでみる。さらに祈る。これで神の導きはいよいよはっきりとわかってくる。 「導かれる」ということは受け身である。人生の問題を受け止めるとともに、神の導きやさとしをも、私達は心を敏感にして受け止めなければならない。この方が易しく、やりやすい道である。しかし、私達はこの理にかなった易しい道を選ばない。何をするのか。自分で道を切り開かねばならないと力み、肩に力を入れて人生に立ち向かおうとするのである。神に聞いて神の導きを知ってから、おもむろにその導きの方向に向かうという選択肢がある。しかし、私達はこの大切な一手を忘れる。ここをはしょる。これを抜く。そして、すぐさま自分の知恵で考えた力づくの方法で、問題にあれやこれやと立ち向かい、その結果ますます神からそれてゆく。そして、疲れが絶頂を迎え、刀折れ、矢が尽きてから、ひょっとしたら神がいるのではないかと思い始めたりするのである。神はずっと待ち続けておられるのだ。あなたがこのように思い始めたら、直ちに神に向かって祈ろうとするのが正しい。どのように祈ったらよいのだろうか。「神様。私はあなたを忘れ、自分勝手に生きてきました。しかし、その生き方が疲れることがわかりました。あなたがおられるのでしたら、今私を助け、私を導き、私をこの問題から救い出して下さい。キリストの御名みなによって祈ります。アーメン。」これでよい。そして、しばらく待つのだ。いろんな思いが浮かんでくるだろう。しかし、まだ動いてはならない。じっくり、ゆっくり、神がそうせよと言っておられるという確信がふつふつと沸いてくるまでじっとしているのがよい。私達は動かずに失敗することは少ない。動いて失敗をするのである。 神により頼んでいると大きな仕事はできないなどと思ってはいけない。神は全宇宙を創造したこの上もなく大いなる方である。「あなたの考える神」が小さいのであって、神はとてつもなく大きなお方である。その壮大な神が、また、あなたと個人的な関係をお持ち下さるほど、細やかなお方であるということをあなたは知らねばならない。だから、神に用いられることこそ本当に壮大な働きに導かれる出発点なのである。神はあなたに格別の恵みを与え、あなたを豊かな神の器にしようとしておられる。自分勝手に動き回る野良犬のようにしようとはしておられない。キリストはあなたを招いておられ、あなたはキリストに従うことにより、神に用いられる神の輝かしいしもべとなるのである。 クリスチャンのことを聖書では「キリストの弟子」と呼んでいる。この「弟子」とは「先生について歩き、先生の所作を真似る人」という意味の言葉である。これからは、落ち着いて一歩一歩キリストに聞こう。神に導きをたずねよう。そして、神に導かれているときに与えられ続ける心の平和、人生の平安を満喫しよう。神はその絶え間ない平安と喜びとをあなたの一生、いや永遠までもずっと与え続けると約束して下さっている。これが神の永遠の救いと呼ばれるものの、今実際に体験できる部分である。
「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものになるためです。」(ヨハネ16・24)
喜んで生きるということは多くの人々の求めている生き方だと思うが、実際にその生き方を貫いている人は少ない。人生には喜べることも多いが、それよりもはるかに多くの困難、苦痛、悲しみの源になる事件が多く、しかもそれが続いてやってくる。重なってやってくる。追いかけるようにしてやってくる。喜びたい思いはやまやまであるが、心の底に恐れや悲しみやあせりがつのってくるただ中で喜ぶというのは、曲芸のようなことを求められているかのようである。 シンクロナイズドスイミングは演者が水上を笑顔で泳ぎ回るが、それは完全に演技である。あの笑顔は強じんな立ち泳ぎ、驚異的な息止め、そして音楽や相方との完ぺきな呼吸合わせを何度も何度も繰り返して練習をして、やっとなし遂げられるものという。何気なく笑っているように見えながら、それはハードな練習のなせる業である。そして、人生の笑顔もあのようなものだと思う人もいるかもしれない。シンクロナイズドスイミングは、同じことを何度も繰り返して練習して笑えるようになる。その一方で、私たちの人生の出来事はそれぞれ一回勝負である。練習して立ち向かうというのではない。人生では次から次へと違う課題、異なる問題、別の悩みが起ってくる。その一つ一つを、立ち泳ぎを懸命にしながら、息を詰めたり、急に吸ったり、そっくり返りながら意味もなくとにかく笑えというのか。そんなことはごめんだ、と思うだろう。それで多くの人々はしかめっ面をして歩いている。私はよく電車に乗って、前の座席の人々の表情を観察する。笑ったり、微笑んだりしている人は少ない。不機嫌そうな無表情といったらよいのだろうか。緊張の多い現代人も電車の中などでは油断していて、表情をつくる思いもゆとりもないのだろう。そして、それはそのまま、心の中からたち上ってくる空気を表しているように思う。つまり、心の中にわき上がる「喜び」という思いがないのである。私は聖書を読みキリスト信仰を生きていて、わきあがる喜びが心にないことが、多くの人々の基本的な問題だと思うようになってきた。 聖書の世界では「喜び」は環境や状況によらないものである。それは心のあり方そのものと言ってもよい。何か素晴らしいことが起ったから喜ぶとか、何かひどいことが起ったから喜べないというのではない。まず、聖書は私たちが自分勝手に一つ一つのことを「よいこと」とか「悪いこと」とかに安易に分けることに警告を発している。そして、実は聖書によると、この「よいことと悪いこととを安易に分ける罪」こそアダムとエバが犯した原罪そのものと理解してもよい。彼らは「善悪の知識の(善悪を知るようになる)木から取って食べた」のである(創世記2・17、3・5、6)。聖書は私たちが自分勝手にこれは良いことだと喜んだり、これはひどいと悲しんだりすること自体に問題が潜んでいることを教える。それは、全知全能の神が私たちに起こることをゆるしておられるできごとの一つ一つを、私たちはまず善悪の判断なしにありのまま受け入れよと言うのである。つまり、良いことかどうかを判断して何かを喜ぶというのではなく、まず神と神のなさるみわざはそれぞれすべてが素晴らしいと断じて喜び、喜んだ後、ではどういう風にもっとこのことを喜べるのかと考えるのである。たとい暗く思えるようなことがあっても、神がそのことが起こることをゆるしておられると考えるならば、そこに何らかの意味があるのである。そして、その意味を求めることこそ、私達に与えられた信仰の前進へのチャレンジである。このチャレンジと促しこそ、喜ぶべきことの一つだと考えよと言うのである。 こう書くと次第にわかるように、神は私たちに喜ばしい事象を与える以前に、私たちに「喜べる心」をお与えになろうとしておられることがわかるだろう。そう、キリストに救われるということは、「一切のことを喜べる心が与えられる」ということでもある。 私の食卓の席の横に、米国のクリスチャンショップでみやげに買ってきた丸い小さな飾り額がある。そこには訳すとこういうことが書かれている。「私は神に、私の心を喜ばせるすべてのものをくださいと願った。すると、神は私に、すべてのものを喜ぶ心を与えてくださった。」 私たちは、「もし○○があれば私は幸せだ、喜べる。」と考える。しかし、その「○○」があなたに与えられても、その満足感や幸福感はそう続くものではない。水を飲めばまた渇くように、こういう生き方は止めどない不足感で常に満ち、満足するということがない。もしあなたが今与えられている状況そのものを神の最善であると信じ受け入れ、その状態で大いに神に感謝をささげて喜ぶ。そしてさらに与えられればまた喜び、取り去られればそれもまた神の最善のみこころと信じて委ねて喜ぶ。そしてさらにまた、本当に必要なときには神は適切にお与えくださるのだと淡々と考えて喜ぶことができるなら、もうそこにあるものは平安と喜びばかりである。キリストを信じ、キリストに委ね、キリストに従って歩むということは、まさにこういうものの考え方の連続で生きることである。このような考えで生き始めた人も、時としてキリストを見失い、神を見失い、神のみこころを疑い、あまりにも目前に展開する思い掛けない事態にろうばいするかも知れない。しかし、恐れるには及ばない。神はすべてを知っておられる。神はそのたいへんなことが起ることすらゆるしておられるのである。われらの救い主は弟子のユダに裏切られ、十字架の死にまでも遭われた。しかし主イエスは三日目によみがえられた。ユダの裏切りまでもが、神の大いなる計画の主要な一端だったのである。だから、暗さはまた、まことの明るさへの大きな前兆である。ある意味でそこで信仰が試されているのである。学生には学期ごとにテストがある。神を知り信じる人間にも、時々神が定期テストの様なことをなさる。そして、そのテストを正しく経るごとに、霊的な実力がついてくる。テストを恐れるよりもテストを活用して、人生における神信頼の実力をつける方がよい。だから、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(ピリピ4・4)と私たちは喜ぶことを促されているのである。人生で起こってくる一つ一つの事象に具体的に準備しておくことは非現実的である。しかし、喜ぶことの訓練くらいならできるだろう。しかもそれにはきちんとした理由がある。神の壮大な救いの計画とみわざを知り、そして、我が身になされているキリストの赦しと導きとを深く覚えて感謝するならば、私達が喜びにあふれることは当然である。 何を体験したとしても、それをどう考えどうとらえたらよいのかを聖書的にしっかりと学んでおこう。そしていつでも何事においてでも、心の中で、「これは感謝だ」「うれしい」「これはすばらしい」「これからよくなるのか。すごい。」と思っていよう。そうすると思わず知らずあなたはニッコリしてしまうことだろう。不機嫌な人々の多い中にあって、この生き方を生きることができるだけでも痛快な喜びである。一回しかない人生、不機嫌に生きるよりは、イエス・キリストの力によって、喜びと感謝で生きる方がよっぽど心地よい生き方ではないだろうか。
「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(ヨハネ6・14、15)
人を赦すと言うことは、非常に難しい。それは、多くの場合自分が何か損害を受けるのでその損害を赦すということが難しいのだと思う。私たちは正義感を持っている。そして不正や不義に対して怒る。自分のやり方を否定されたり、疑問を出されたりするだけで怒る人もいる。客観的に悪いことに対して怒っている場合でも、主観的に不快感をもって怒っている場合でも、怒るという現象はほとんど同じである。そして怒りは様々な副産物を産み出す。まず、心に苦々しい思いを起こさせる。本当に苦いのであって、医学的には胃液や胆汁もどっと出ているようである。だから、胃や肝臓、胆のうが悪くなるのも十分に理解できる。人に何か悪いことをされて、その人を赦せないという状態が、その次に自分の体をもむしばみ始めるという悪循環がやってくる。病めばますます気がめいる。そして本格的な病気はもうすぐそこにある。 私は昔、人間は年をとるとみんなゆったりとした寛容なお年寄りになるのだとばかり思っていた。しかしどうやらそうでもないことがしだいにわかってきた。気難しいお年寄り、恐れられている熟年者、頑固なので一緒にいたいと思えないような高齢者もいることがわかってきた。高齢者のケアホームは天国のようなところではない。そこでも人間関係の問題は絶え間なく起っている。他の人に対して寛容になれるというのは、年齢によるというよりは、生き方の問題である。たしかに人生長く生きていると、自分の思うようにいかないことが多いので、学習効果が効いてきてあきらめの境地になることはあるだろう。しかし、安易にあきらめの境地になるとボケるかも知れない。寛容とあきらめは違う。ボケて忘れるのと、覚えていることを赦すのとは違う。心が屈折しているのと、心が広いのとは違う。悲しみながらしぶしぶ恩着せがましく赦すのと、喜んで赦すのとは意味が違う。人間が委縮して赦すのと、人間が成長して赦すことができるのとは明らかに違うことである。 聖書の「寛容」という言葉の原語は、「気が長い」という意味である。すぐに判断を下さない。その事象をありのまま見て、そのまま受け入れる。長い視野で物事を考える。じっくりと受け止めるのである。だから赦すとか赦さないという状態でとどまっているのではない。その起こっている事実をそのまま受け入れて、そして、そのことのために祈り、感謝し、最善がなされるようにと期待する。それは、その事実に必ずしも同意しているわけではない。眺めているのかもしれない。しかし、断罪しない。切り捨てない。食ってかからない。たまには筋を通さないといけないこともあるだろう。それは通せばよい。しかしそれは、人を恨むとか復讐を考えるとかいうこととはまた全く別のことである。そこまですることはない。長い目で見る。そうすれば万事は益になる。すべての背後に神が働いている。自分はそのほんの一部しか見ていないのだ。そう思う。そして自分が次に取るべき姿勢を一歩一歩考えるのである。 動物の寿命について調べた結果、ちょこまかちょこまか動く動物は短命であり、ゆっくりゆっくりと動く動物は長命なのだそうだ。「寛容」という言葉の意味には、私たちが息を長くして生きるように勧めている響きを感じる。あくせくして、すぐに決めつけるような生き方でなく、おおらかに生きたいものだ。永遠のいのちとは、息の長い人々のいのちであると思う。
「善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」(ガラテヤ6・9)
私は牧師になる直前、神学校の最後の3ヶ月、ゆるされて首都圏の著名な牧師の牧会する教会を毎週一つずつ訪問して、牧会の現場を親しく見せていただくという幸いな機会が与えられた。いずれも大教会で何百人もの信徒をかかえる教会の牧師ばかりなので、至極多忙な方々ばかりである。事前にうかがうことは一報してあることが多いのだが、それにしても今にして思えば、著名な牧師達に実に歓待していただいたと思う。どの牧師も新米の牧師の卵に親切に接してくださり、多忙な牧師先生方が、多忙な日曜日というのに、自ら色々と案内をしていただいたりして、びっくりすることが多かった。夕食までいただいて帰ることがあった。こういう細やかな善意の人々がいるのだなあという感慨とともに、今だ自らがそこに達していないことを覚えて、恥じ入るばかりである。 私たちは皆、心の中にある程度の善意を皆が持っている。しかし、私達の心の中には別のものもある。恥ずかしさ、おっくうさ、そして時には敵対心やねたみ。人間は性善説や性悪説ではカンタンに説明できるようなものではない。自分で考えてもおかしな行動をとることすらある。「電車の中で席をゆずる」ということなどは最もわかりやすいことだろう。カンタンにできる善意であるが、その風景を見ることは少ない。都会に住んでいると、人々はあいさつすら交わすこともない。私が始めてクリスチャン達の集会に行った時に感動したのは、だれもが親しく声をかけてくれ、やさしく話しかけてくれることにであった。それは、天国の味わいといってもいいようなものだった。私たちの教会にもいつもこういう雰囲気はある。しかし、一歩外に出ると、この雰囲気とは全く異質の社会に囲まれていることを知る。人々は目を合わそうとさえしない。アメリカを旅行すると、人々があちこちで自然に「ハーイ」などと言ってあいさつするので、その気になって旅行を終え、日本の空港に帰ってきた途端、バゲッジクレームで押し合いながら無言で荷物を取って、ぶつかりぶつけられながら帰途につきつつ、ため息をつく。 あいさつ運動を始めてみようと思って、朝の散歩やジョギングの時に近くの川沿いの公園で会う人々に「おはようございます。」とあいさつを繰り返していたことがある。しかし、残念ながら続かなかった。朝起きがつらかったことが主な原因だが、大体相手がこっちを向いていない。それでも、やり続ける大切さは大いに感じてはいる。 あいさつというのは「善意」というにはほんの入り口なので、重要なこととして取り上げるのはどうかなと思っていた。そんな折に、聖書の中から「あいさつ」について書いてある部分を説教する機会があった。新約聖書のパウロの手紙は各書の終わりにいろんなあいさつがある。パウロのローマ人への手紙は最後の章である16章のほとんどが、「○○さんによろしく」という言葉を繰り返すあいさつに終止している。聖書があいさつを重んじていることは確かなことである。その時はどういう内容の説教をしたのかは忘れたが、その説教の聖書の箇所に「あいさつ」が入っていた時、説教の後で、会社の管理職をしている方がわざわざ私のところにやって来てこう言われるのである。「先生、会社で社員の訓示に『あいさつしましょう』とよく話すのですよ。あいさつって大事ですねえ。今日の話も使わせてもらいます。」みんなそういう感じを持っているのだと思う。 あいさつは互いの緊張をときほぐす。あいさつは人間関係を開く。あいさつはこちらが相手に敵意を持っていないことを示す。あいさつは、そのことだけで何かしかの善意と心地よさを伝える。心の余裕のある人があいさつの先手を取ることができる。そして、イエス・キリストを知って教会に参加することは、このようなあいさつの満ちあふれている世界に入ってゆくことでもある。もっともっと多くの人々が教会に来られて、この「あいさつを交わしあう文化」が私たちの国に大きく育てばと願う。そういう善意の人が増えるように、私も続けて働きたい。しっかりあいさつをし合う人々が回りにふえるように、周囲のできるところから始めたい。
「管理者には、忠実であることが要求されます。」(第一コリント4・2)
忠実や誠実というのは本当に好ましい。それは人間の持つべき大切な徳である。何かがたとい良くできる人であっても、誠実さや忠実さに欠けていると、他人に大きな失望を与えてしまう。そういうライフスタイルは外に出る。そして誠実さが深まることが、キリストを信じる信仰生活の向上のバロメーターと言ってもよい。元々誠実な人は、聖書を学ぶとクリスチャンになりやすい。なぜなら、神こそ最も誠実なお方なので、その人には聖書の教えがすぐにピンと来るからである。神は約束を破らない。神は必ず神の言葉の通りにしてくださる。よく似た者同士は反応し合う。誠実さをもって神に向かうなら、互いに分かり合うような感じで信仰に入ることができる。 誠実さや忠実さはこのようにたいへん大切な性質だが、誠実な人が神なしで心から誠実に人生に向かおうとすると、そこにはいろんな危険が待ち受けている。聖書の誠実は「約束に忠実」という言葉なのだが、現実の生活で一方的に約束に忠実に生きると、とにかく色々なはかりごとに遭う。様々な業者はセールステクニックを使って私たちにいろんなものを売り込みに来るし、職場は詳細なマニュアルを用意して過大なノルマを押しつけてくる。一般的に、まじめな人ほど精神・神経の病になるという。きちょうめんに生きれば生きるほど、神経内科に通わなければならないような重い心の疲れを負う。まじめさがあだになるのである。 では不真面目に生きればいいのか。そんなことはない。秘訣をお教えしたい。人に対して忠実に生きようと思うのではなく、あなたをおつくりになった全知全能のまことの神に対して、忠実に、誠実に生きようと思えば良いのである。 人間の社会や組織は色々なアイディアを考え、目標を設定し規則を作り、しゃにむにそれに向かおうとする。そして、そういうものを絶対的なものと考え、そういうとりきめに忠実に生きようするので、その結果人間性にひずみが起きるのである。これを人間疎外と言う。そこは忠実さをフルに回転させて使う場ではない。そこは神のゆるしておられる範囲だけで正しいのであって、全面的に正しいわけではない。だからそこに全面的に依存しては、あなたの心とからだが危険なのである。会社も上司もあなたが神経の病になることや病気で倒れることを望んではいないだろう。彼らはあなたの「誠実な生き方」だけを望んでいるのである。 本当に誠実な生き方とは、あなたのすべてを見ておられる神の前で誠実に、忠実に生きることである。そして神は、あなたが仕事を始める以前の、生活における忠実さをもっと問っておられる。つまり、もしあなたが神を忘れて生きているのならば、そのことこそ本来あなたがすべきことに対して最も不忠実な生き方なのである。さらに進んで、あなたは神の前であなたの人生の目的を修正される必要もあることだろう。あなたが、あなたのために、またお金やモノのために、また家庭のために、自分が生きていると思っておられるなら、それには修正が必要である。あなたは神によってつくられた。神はあなたを、あなたにしかできない、あなただけの独創的な生き方にお召しになっている。換言すれば、あなたは神に用いられ、神の作品として神のために生きるときに最も輝くようにできているのだ。そして、その時にあなたの心は最も喜びで満たされ、あなたの精神も真のバランスを持ちうるようになっているのである。その時あなたは喜び、あなたの家族も喜び、あなたの会社も、あなたの上司も喜ぶ。そういう生き方があるのである。この生き方を聖書では「神の栄光をあらわして生きる」という。 神を動機とし、神との誠実な交わりを始める。すると神は「あなたの重荷を私のところに持ってきなさい。」と言われる。キリストは「わたしが休ませてあげます。」と約束してくださっている。神とともに祈りつつ、委ねつつ歩むと、不思議なことに面白いことが分かってくる。自分自身がそんなに誠実であろうと強く意識しなくても、誠実な神がいろんな助けの手をその時その時に伸ばしてくださる。それは一瞬一瞬やってくる。全能の神は私達をまとめて一気に導く必要がない。私達一人一人を一歩一歩導き、一見難事に見える問題ですら、思ってもみないような解決へと導いていってくださる。なんと聖書は「思い煩ってはならない。」(ピリピ4・6)という命令まで私たちに与えていることが分かってくる。私たちが精神を病むのは、自分で先々まで考えすぎて疲れ、自分の頭であれやこれやと想定しすぎてかえって思惑外れに遭うのである。 本当に切れ味の鋭い刀は少し鈍いとぎ味にするものだと聞いたことがある。使い手が素晴らしいとその方がスパッといくのだ。あなたが少しなまくらな刀、神が使い手と考えてみるとわかるだろう。自分で全部計画しよう、自分で全部実行しようと考えないことだ。神の導きに従おう、神の導かれるときに動こうと考える。そして、十分に引き絞られた弓がその頂点で解き放たれるように、あなたも待って待って待って、神の号令が明らかにかかる時に一歩進むようにするのだ。これが本当の誠実、これが本物の忠実さの原点である。 このようにして生きるなら、あなたは人の前でも十分誠実な人物と呼ばれるだろう。ひょっとしたら、大きな器を備えた人物と呼ばれるかもしれない。栄光は主に帰そう。あなたは、「私はふつつかなしもべです。なすべきことをしたまでです。」と、ここでもまことの謙遜を養うことをむねとするのが神のみこころなのである。
「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」(マタイ5・5)
聖書の柔和という言葉について、面白い説明を聞いたことがある。この言葉は馬をならすときに用いる言葉だという。馬にはじめてくつわや手綱を付けると、馬はそれをいやがる。それで、手綱を右に引いて、右に曲がるように指図しようとすると、馬は反対の左を向こうとするという。左に向けようとして、左に手綱を引くと、馬はいやだといって右に向こうとするという。しかし、調教師が上手な訓練を施すと、馬はちゃんと御者の引く方向に従って首を向け、そちらの方に進むようになるという。そのならされた馬のことを「柔和な馬」と言う。それがこの「柔和」という言葉の元々の意味なのだそうである。まるで馬のことでなくて人間のことを言っているかのようである。 私たちも他の人に指図されてなかなか従えない者である。何でもとにかくまず反対する人もいる。しぶしぶ従うこともある。馬が普通に生活の中で使われていた聖書の時代には「うなじ(首筋)のこわい(硬い)民」という表現がある。御者である神が手綱を引くように神の民を導くのであるが、人々が不従順、不信仰なのでいっこうに神に従わない様子を、訓らされていない馬のように首筋が硬いと表現しているのである。私たちも生まれつきのままではごく自然に、神に対して「うなじのこわい民」であると聖書は言っている。まことの神の教えや神の導きなどを全く考えに入れずに、自分勝手に生きているからである。 さて、人間は神につくられてお互いに平等である。ただ、社会には秩序や上下関係などもあって、謙遜になって従わなければならない機会も多い。一時、企業は運動部出身の学生を優先的に採用すると言われたことがある。封建制のような体質の残っている日本の運動部では、先輩に絶対服従というところも多かったので、固い団結を重んじる企業の人事募集ではそのようなことを重んじたという。十分な納得の上で従うのならよいが、何でも従えというようなきびしい上下の関係の中で、酒の一気飲みをさせられて倒れる新入社員や新入部員がいることを聞く。その場の勢いでそういうことをするのだろうが、そういう人間関係の中では、本当のところは従いたくない場合もけっこうあるだろうと思う。 私はクリスチャンになる前後、大学生のくせにビジネスマンの読むような本も好きで、あれこれと読むようになっていた。するとそういう世界には、良い人間関係の作り方だとか、人に気に入られる方法だとか、人を動かすにはどうすればよいのかだとか、様々な人が様々な体験から本を書いている。そして、読んでいて思ったのは、こんなにうまくいくのかな〜。ストレスたまっちゃうな〜という感じだった。理屈では分かるが、著者の長年の経験やつくり上げたノーハウ、それにどことなく自分まで欺いているセールスマンのような感じのものさえあって、ある種のものはあまりなじめなかった。「もうけるためのセールストーク」などという類いのタイトルに、何か、目的のためには手段を選ばずの様な感じさえするのであった。そんな中で聖書の学びに導かれ、イエス・キリストを救い主と信じた。すると、面白いようにそういういわゆる処世術の背景にあるものがわかるような気がしてきた。ハウツーものは表面的なノーハウの様な感じがしすぎて、その奥というか、源泉にある心にピタッとしたものを感じることができない。しかし、聖書を知りキリストを信じると、行動以前の物事のとらえ方、発想の仕方が根本的に変わってゆくことに気がついた。今まで聞いていた生き方のノーハウでは、自分中心は当たり前で、自分の利得のためにこれをして何が悪いのかというような開き直りのような考えまであった。あるいは美しい言葉で論理的に説明されているのだが、どうも気分がのらないところ、あるいは、深くわからないところがあった。しかし、聖書の学びを深めて自分の罪を知り、それを悔い改めて神に祈り、神の前で砕かれて神に委ねることを知り、そののち神の導きに信頼して進んでゆくと、なんと、苦もなく正しく良い人間関係を築いてゆけるという道がそこにあることに気がついたのである。 自分が自己中心であることを隠しながら、相手の利益でもあるかのように話を進めるというような姿勢から、自分が自己中心な罪人であることを神の前で認め。悔い改めて赦しを乞い「主よ、次はどうしたらよいでしょうか。」と一歩一歩神に従って謙遜にされて歩む。そうするとかえって純粋に神の導きの内に他の人の必要が見えてくる。そして神が「仕えなさい。与えなさい。」と語りかけておられる導きに素直に従うと、心から人に仕えることができるようになる。神への従順と人への従順が重なってくるのである。これは面白い発見であった。聖書は最良の人間関係を心の底から真実につくらせてくれる究極の処世術の本だなあとその時思えたので、そのことが初期の信仰の大きな励みになったのである。 柔和になれない、謙遜になれないと言って困っておられる方はいないだろうか。私たちの自分の力と知恵と努力ではそれはそんなにうまくいかない。しかし、自分の自己中心の罪の姿が神の前でよく分かり、「主よ、イエス・キリストの十字架に私の一切の罪を委ねます。私をあなたのまことの調教にお任せしますから、古来から多くの人々があずかって祝福され大いに喜んで生きてきた、あの伝統的な方法で、私も一つよろしくお願いします。」と心底から神に向かって祈るなら、あなたは企業が大金をかけて行なうどんな幹部候補生研修に出るよりも、永続する良い効果をおさめることができる。神はあなたの良き志を受け止めて、あなたに立派にキリストの弟子訓練を与えてくださる。あなたは神の名をもって呼ばれる「神の民」となり、キリストの名からとられた「クリスチャン」と呼ばれるようになるのだ。 私達の社会ではどこでも有名な会社の一員になるならば、その会社でしっかりとふさわしく訓練されて、その会社の名前を立派に背負って歩く人物になるものである。もし正しい訓練を社員にしない会社があるならば、その会社は、その訓練の足りない社員の未熟な行為によって、著しく評判を落とすことになるだろう。イエス・キリストの名を背負って歩く者を、神は、キリストは、必ず豊かに真剣に訓練してくださる。しっかりと神の訓練を受けようではないか。その結果あなたはまことの柔和な人となって、柔和な人に与えられる祝福に満ちあふれた人生を、神にあって満喫できるのである。
「あなたの罪は赦された」(マルコ2・5)
あなたの人生の最大の問題は何だろうか。お金か、結婚生活か、仕事か、地位か。聖書はあなたの最大の問題は「罪」だという。これは私も最初はなかなかわからなかった。なぜこういうことを問題にしなければならないのかが、よく分からなかったのである。そんなに他人の内面に深く入って来なくても良いのにと思った。そしてむしろ、もっと明るい方を見るべきだと思った。罪などというものは忘れていたかった。 私の父は第二次大戦の従軍から帰って四年目に結婚し、次の年に私が生まれた。小さいころ、父が戦争から持って帰ったという四角い小さな皮の兵隊用の物入れなどを見せてもらったことがある。そして子供心に驚いたのは、時々父が夜中に大きな声で叫ぶような寝言を言ったことである。内容は覚えていないが、びっくりしたことだけが記憶にある。アメリカのベトナム戦争帰還兵の調査で次第に明らかにされてきたことであるが、戦時下で緊張感に満ちて死線をくぐってきた兵隊達は、その戦場の殺し合いの記憶の悪夢に長いことさいなまれるのだそうである。いわゆるPTSDなのだろう。戦後五〇年も六〇年も経つのに、老いた元兵隊達は、死ぬ前に言っておきたいと、自分達が行なった残虐きわまりない戦争体験を告白し証言することが最近よく報道される。忘れようとしても、忘れられないのであろう。 人間の記憶というものは、消えてしまったかのようであっても、忘れてしまったかのようであっても、実は鮮明に脳の中に残っているのだという。特に、若い時の記憶ほどそうだという。人間は自分の心ぐらい自分で自由に扱えるように思う。ところが、人間の心には生まれつき備わった「良心」と呼ばれる、自分にはどうしようもできないものがあり、その良心に逆らって行なったことや、行なって良くなかったと思ったことなどは、その記憶が終生消えることがないという。そして、何気なしに、ほとんど何の関連も理解できないような時でも、ある日突然そのことを、良心の痛んだことを、思い出すのである。「思い出さされる」と言ってもよいだろうか。心理学ではこういう研究も進んでおり、このことはどの人にも起こっているという。そして、普通は「だれにでも起こっていることですからね。忘れるといいですよ。」くらいで終わらせられている。しかし、だれもが同じ経験をしているからと言う説明で、このような、罪意識で大きくかき立てられた心がおさまる保証はない。ましてや「忘れるとよい」などというアドバイスは不可能で無責任な言い方である。私達の社会の中にたくさんある気晴らしの数々は、こういうことで疲れている心をほんの一瞬の間だけ気をそらせるために、考え出されたもののように思う。しかし、人間の心は気晴らしでごまかされるようなものではない。気をまぎらわせようと旅に出たところで、私たちの心も記憶も旅先にずっと一緒について来ているのだ。 カウンセリングという方法もある。しかし、私はカウンセリングを施す方の立場にいるが、この方法は要するに、その疲れた心の人の心の疲れがどんな具体的な問題から発しているのかを、冷静に本人に直面させるということが中心にある。解決はやはり、自分自身で考え選ばなければならないのである。 こう考えてくると、もはや私たちは自分が過去に犯した罪や過ちから全く逃れるすべが無いことに気づく。もう少し付け加えよう。人間は大きな罪で悩んでいるだけではない。他人から見たら何のことはない、そんなことで悩まなくてもと思うような罪。また、もうどうすることもできないじゃないかと思うような後悔。それに、それは自分の頭をたたいておくしか仕方がないじゃないのというような罪、そういう罪に、まるでエアーポケットにはまったように悩んでいる人々が、この世には無数におられるのである。心理学者はこれを氷山の水面下部分にたとえて、ふだんは意識していないが私たちの人生や物事の判断の際に大きな影響を与えている事々であるという。私たちの性格がねじれたり、曲がったりする大きな原因はこういうところにも見いだされる。 したがって、人知れず罪意識を抱き、だれにも分からないように巧妙に隠しおおせるようにと思っていても、思わぬところで馬脚をあらわすこともある。他人が見て一見何か変だなあと思う現象の背後には、こういう問題が潜んでいることもある。だから、カウンセラーはそういう微妙なことに注意を払いながらカウンセリングをし、その人の問題の根源を少しずつ明確にしようとするのである。 ここまで考えてきたら、もはや、私たちのとるべき道は明らかだろう。一刻も早く人生の「罪」の問題にはっきりと解決を得て、残りの生涯は「罪による様々な束縛」からできるだけ自由になって生きる道を求めるべきである。聖書には世界で最も広く知られ、歴史上最も多くの人々によって試みられ、そして最も多くの人々によって証明済みの、罪の明確な解決方法がある。このことこそ聖書の中心であり、神が私たちを救ってくださることの中核部なのである。 この方法は罪を忘れるのではない。それをいい加減に扱うのでもない。いやむしろ、もっと真剣に扱う。あなたがちょっとのでき心で犯したような罪であっても、それは深い意味で、あなたを創造しあなたを支配して導いておられる神への反逆であると聖書は言う。そして、その罪への神の裁きは実に死刑なのである。あなたは罪の故に、今、神と交わりが持てないくらい霊的に死んでおり、しかも、その罪の故にこの地上の生活の果てで地獄に投げ込まれるのである。今あなたが感じている苦しみや良心の呵責はその地獄の炎の照り返しである。だから、もうあなたは神の前で観念して、あなたの力で逃れようとするのをやめ、神の次の一手を聞いたほうがよい。実に、神が教えるこの次の一手こそ、聖書の中心テーマなのだから。 神はあなたをあなたの罪のゆえに裁かなければならない。それは、神が聖なるお方、聖さの極みなるお方だからである。しかし、神は愛の極みであるお方でもある。神は、そのご愛のゆえに、神の一人子イエス・キリストを私達のためにこの地上にお遣わしくださった。そして、神はご自身の全き聖さのゆえに、私たちの罪をそのままになさらず私達を罰し裁かなければならないものを、その裁きを一人子イエス・キリストの上に置き、身代わりにイエスを殺して罰してくださったのである。そうすることによって神は、私たちを愛してくださっているということもはっきりとあらわされたのである。 あなたはこれから、自分が犯した具体的な罪を思い出すごとに、「神がイエスをお遣わしになって、このお方の上に私の罪の裁きを置いて下さった。」ということもあわせて、一緒に思い出すとよいのである。それは、十字架であなたの罪に一つ一つバッテンをするようなものである。将棋で相手の詰めの一手に対して、大名人が大逆転の一手を指すようなものである。あなたが今まで悩んでいた罪は、神の救いと導きの絶好の出発点になる。これを聖書は、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」(ローマ5・20)と言っている。 「そんな簡単に赦しちゃいけないんじゃないの。」と言う人があるかもしれない。簡単などではない。神は一人子イエスの命をあなたの身代わりにお捨てになったのである。また、あなたが自分の罪を認めて、イエス・キリストの救いに身を委ねるということも、簡単そうに見えてそう簡単なものではない。これは自分で自分を救おうとすることではない。むしろ、自分の力ですることをやめて、神に委ね任せることである。このことが私たちにはなかなかできない。不思議なことに、私達は今まで自分の力で何かをすることに慣れているので、「神様、わたしのこの罪もこの罪も、あなたの一人子救い主イエス・キリストのゆえに、赦されることを信じ受け入れてやすらぎます。」と真実に言うことすら困難を感じる人が多い。言うことだけはできても、心の底からは任せられない。心から委ねられないのである。ここには、神が本当にご介入してくださる必要がある。私達はこの、罪を赦して下さる神の招きに答えて、「よろしくおねがいします」と力を抜いて、身を委ねなければ救われないのである。この救いは、ある日突然「ああ、こんなに簡単でしかも、スッキリ、はっきりしたことなのか。」とわかるものである。ただそのためには、私たちは真実に自分の罪と向き合わねばならない。そして、牧師や先輩のクリスチャンが神の導きや教えについてあなたに話してくださっているときに、真剣に聞き入り、そこに神からの真実な招きがあることを明確に知らねばならない。そしてだれに向かってでもない、ただ神に向かって、心から「主イエス様、私のこの罪を今あなたに全くお委ねします。私をゆるし、新しくしてください。」と祈るのである。 神から罪をはっきりと示された人のこのような真実の心の叫びには、多くの場合、告白の苦しみと赦された安堵感とでないまぜになった涙が伴うものであることを、私は多くの経験から知っている。そして、この祈りの時に、主イエス・キリストの霊である聖霊は、あなたの心に入り、住み始めてくださるのである。これは、あなたの天国への誕生の瞬間なのである。
「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」(エペソ2・2)
「神をも恐れぬヤツめ」とか「神仏を恐れて生きなければ、人間はだめだ」と言われる場合がある。私たちの国ではそういう「神仏を恐れる」ような生き方をすることに、プラス評価をすることはあっても、マイナスの評価はあまりしないのではないか。 キリスト教は「神を恐れて生きる」ことを基本に持つ生き方である。しかし、一世紀後半、キリストの直弟子の十二使徒たちがローマ帝国内で伝道していたころに、彼らは「無神論者」と呼ばれたという。いったいそれは、どういうことなのだろうか。 ローマ時代、人々はギリシャ神話の様々な神々に礼拝していた。当時の町々にはあちこちに神殿や祭壇があり、人々はそこで祈願をささげ、いけにえを捧げたのである。また、ローマ帝国では、皇帝を礼拝することをはじめた。それは「尊敬」をあらわすだけでなく、神的なものとして皇帝をあがめる礼拝を編み出して、人々にそうするように命じ、帝国を強固にまとめようとした。宗教と政治とを一つにして、強力な統治をしようとしたのである。明治時代から第二次大戦を終えるまでの日本は、これを真似ようとしたと言われている。それで、皇帝を拝めと言われたとき、ギリシャの神々を拝んでいた人々は、その神々にもう一人を加えるような形で皇帝を拝むことを受け入れ従った。つまり、ギリシャ神話の神々が実に人間くさい、しかも架空の話がないまぜにされてちりばめられた、いわゆる「神話」であるということを、すでに感じていたので、突然、皇帝が神のごとく礼拝され皇帝のための神殿が建てられたところで、そう驚きはしなかったのである。つまり、それだけギリシャ神話の神々に他の神を排除する排他性を感じていなかったのである。複数の神がいてもおかしく思わなかった。とにかくたくさんの神々があるのだから、一つぐらい足しても別にいいじゃないかと感じる人もいただろう。我が国は八百万(やおよろず)の神々がいると言われるが、これは実に極端な多神教、偶像礼拝の国である。日本昔話などを聞いていると、すぐに偉人の祠を建てたり、たたりのあったと考えられるところにお堂などをつくって、村の人々は拝みましたとさ、で終わる。そして、それを別に何も変だと思わない。最近は、「宗教戦争」といわれるものが、過激な人々によって宗教の名のもとに起こされたりするので、日本人のような宗教的に多元、多様で一つの信仰を堅く持たないことをむしろ良いことのように評価するむきもある。それでいて、日本ではたとえば天皇や靖国神社のことを少しでも批判すると、超ブラックな電話がかかってきて、「暗い所を歩く時は気をつけな。」というようなことを言って切れると言われている。文化の根っこに、そういう人々がいて、暗躍している話を聞く。日本は決して、無宗教の国でもなければ、多元的に宗教を認めて平和な国としてやってきたわけでもない。長い間、封建体制の元で仏教以外はご法度である江戸時代が続き、その後は国粋主義の天皇制を国家神道と呼んで、日本人は世界で特別な人種、民族のように教え、人々の純粋な信仰心をすら、国家があからさまに統制してきたのである。寺院を戸籍所のように用いた江戸時代。氏神と官弊大社で神道の教区制を国家的な規模で行うばかりか、占領したアジアの国々にまでその神道の教区を広げようと外国の占領地に神社を建てていったところに当時の日本政府の深い宗教的な思惑が見てとれる。そして、そのいずれの時代にもほとんど絶滅をはかられたのがキリスト教徒であった。それは一世紀後半から四世紀初頭にかけての約250年間もの間、初代キリスト教会がローマ帝国の中で通った困難な迫害の歴史にも匹敵する。日本の一部の文化人が現在強調している「日本における宗教的な多様性の是認」は、決して他宗教への寛容などというようなものを歴史的には持っていない。それは歴史上ではそのままキリスト教の絶滅運動とつながってきた。これは今後研究せねばならぬ重要な歴史的事実である。 日本では多くの牧師、宣教師がキリスト教伝道をしているのであるが、不思議なように、キリスト信仰に導かれたり確固とした信仰者になる人は、なされている働きの割には少ない。世界的にみて特異と言えるくらいそうである。その原因の大きなものと私が考えているものは以下のことである。それは、日本人が現在、もうその行なっている意味が良くわからないながらも、綿々と伝えているところの様々な伝統や、しきたり、タブーや風習と言ったものに、実に「悪霊崇拝」「悪霊への恐れ」「悪霊の支配から霊的に逃れられないこと」「悪霊がつくっている様々な装置をそれと気づかずに保持し続けていること。」また、「ばち、たたり、不作為による災いなどを、心の奥深くで大いに恐れて生きていること。」などによるのではないかと思うのである。 先日、京都の有名な祭りをたんねんに調べた2時間のテレビの特集番組を見た。興味深いことに、その祭りを行なう町衆の中心部分の人々は既にもう京都の中心のその場所には住んでいないという。そこで、祭りの際に伝統を絶やさぬために一時的な養子縁組みまでして、その伝統を守ろうと苦慮している。その祭りの道具置き場、山車置き場にカメラが入ると、そこには様々な仏像、偶像が安置されている。そして、祭りの当日、様々な山車の上にはその偶像が安置される。祭りの行列の一番最後の山車を後ろからカメラがとった場面が最後に出た。そこには、大きな竜が描かれているのである。これは日本の祭りでは当然のことでもある。竜は守り神であり、その祭りの霊的な部分を最後部から守護しているのである。以前別のテレビ番組で、大きなお寺の改修に伴って礼拝所の天井に壮大な竜の絵を描いている現代画壇の著名な画家のアトリエの様子を放映していたことがある。それからのち、私はそういう場所に近寄ると、竜の絵がないか捜すことにしている。そしてたいてい、壮大な彫刻、紋様のように様式化された竜に出合うのである。聖書の世界では「竜」と言えば、サタン、悪魔、悪霊、神に敵対するものの象徴であることは常識である(黙示録12・9)。聖書では竜はまた「古い蛇」とも呼ばれている。蛇と言えば聖書の最初の書物の創世記にも出てきて、エバを最初の罪に引きずり込んだ罪と誘惑の権化である。この古い蛇は常に人間の歴史にかかわっているが、聖書の最後の書物である黙示録にも出てきて、この世の終りに大暴れをする。その時、この竜あるいは蛇に刻印を押された人々は最終的には神に裁かれ地獄に投げ込まれることとなる。聖書では竜や蛇の刻印は悪の支配の権化で、地獄の裁きを受けるものを指しているのである。そんな目で日本文化をみていると、至るところに竜や蛇が書かれている。中国やインドの影響を受けているとも言われるが、インドにはキリスト教は一世紀から入っており、中国でも七世紀頃にはキリスト教の影響は盛んであったと歴史は教えている。そのどちらの国の人々も、キリスト教では竜や蛇はまことの創造主なる神に敵対する堕落したこの世の支配者としてのサタン、悪霊をはっきりとあらわすものということを、当時十分に知っていたはずである。私は見える人々には見えていて、サタン、悪霊の支配をあらわす竜や蛇がそこで支配しているという理解が共通しているのだと思う。そして、まことの神を否定しているなら、それは、竜や蛇の支配するサタンの帝国に住んでいるということである。そのしるしを人々が意識的に用いていることこそ自然なのだろう。私は現代、日本の人々がこの歴史的に綿々と受けつがれたサタン礼拝の形式を明確に引き継いで、知らずにとは言いながらも、形を受けつぎ伝統を守っているというところにこそ、サタンや悪霊のしっかりとした支配の思うつぼに現在もはまってしまっていることを、ぜひ多くの方々に知っていただきたいと思っている。そして意味が十分わからないまま行なっていたとしても、そこでなされている宗教的行動そのものが、参加者を非常に強くサタンや悪霊の霊的束縛に結果的に引きずり込んでいること、ひきずり込まれていることを深く自覚していただきたいと思う。私達がまことの罪の赦しを経験し、まことの神を信じて聖霊の豊かな導きをいただき、天に宝をたくわえる生活に入るためには、このサタン、悪霊の霊的束縛からどうしても解放されなければならないからである。 「霊的な束縛」というものは自分がその中にいると、なかなかわからないものである。そこから引き出されてやっと、なんとひどいところにいたものかということがわかるのである。 私はこういう職業なので、結婚生活に破綻している夫婦の悩みを打ち明けられることも多い。そして、特に、女性の側に立って見ると、伝統や封建的なつながりをもった職業にたずさわる夫に仕える奥さん方に、特に疲れが大きく出ているように思う。日本の「伝統」や「格式」あるいは「しきたり」や「厳格な上下関係」という文化の中に、たいへん失礼ではあるが非常に乱れ汚れた倫理上の問題がからんでいるように思われることがある。わかりやすく言うと、女あそび、浮気、重婚、不品行というような問題が他とくらべて多く起こっているように思われるのである。そしてそれは、夫婦の不和、離婚状態、離婚というように続いてゆく。そうでなければ、夫婦のどちらかが、それを一方的に耐えているのである。 ちなみに聖書では、創造のまことの神を信じ、まことの神を愛しその神に仕えることが私達の本来あるべき姿で、それは結婚関係のようなものであると言う。そして、このまことの神との正しい関係から外れてゆくことを「霊的な姦淫行為」と呼ぶ。そして、聖書がさらに教えているのは、「私達は霊的な姦淫行為を始めると、日常生活での姦淫行為も始めてしまう。」ということである。もう少しわかりやすく言うと、「偶像崇拝を熱心にやり始めると、夫婦関係がおかしくなる。家庭が倫理的に狂ってくる。」と言うのである。これは、一般的に考えられている「宗教をやっている人はいい人と思う」というのと少し違うだろう。むしろ、「宗教を熱心にやるとちよっと変になる。」ということである。私はキリスト信仰をいわゆる「宗教」というワクの中で考えない方が良いと思う。それは、キリスト信仰は明白な歴史上の事実に基礎を置いており、信じることに知的に無理がないからである。霊的にもきよくさわやかなものを感じる。しかし、いわゆる「宗教」というものは、汚れた霊の存在がそこに見られるので、やめた方が無難だとはっきりアドバイスしたい。 時々新聞に面白いきれいな広告が入る。それは、竜などの絵をサイフに刻印して、そのサイフを持っていれば宝くじに当たるサイフの広告などである。竜の刻印のサイフを大切にして当選を祈ることは、サタン、悪霊の奴隷になってもいいですから、私をとにかく金持ちにして下さいと祈っているということなのである。 日本人は単純に、お金持ちになったら、地位が上ったら、広い家に住んだら幸せと考えてしまう。そのことこそ、このような宗教やまじないにだまされる基盤ではないかと思う。一方でたたりを恐れ、もう一方で本当の幸福を誤解している。これは日本人の現に行なっている偶像崇拝に対して、現在下されている神よりの裁きの一つと言っても良いのではなかろうか。つまり、何が幸福なのかということを真剣に考えることができず、しかも、深く恐ろしい口を開けている悪魔の策略に全く無防備に引きずり込まれて、たたりと霊の束縛のさらに深い混迷に、赤子のごとく易々と入って行ってしまっているからである。このようなことに心当たりがおありならば、ぜひ一度自ら検討を加えられ、どうせ信じるのならば、真実でまことの神を求めようとする思いを真剣に持っていただきたいと心から願うのである。
「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」(ローマ12・11)
私が学生のころ、三無主義とか四無主義とか言う言葉が流行った。無気力、無責任、無関心、無感動な人々が増えたというので、こういう言葉で若者をひとくくりにして論じる人々がいたのである。確かに、そういう人も多かった。様々な社会的なことや自分の身の回りのことなどにも無関心で、ただ当たり障りのない生活をして、自分一人の殻に閉じこもる。何かを自分からやろうとしない。それでいて、誘われてもほんの少し反応するだけである。そういう若者は多分、企業に入って厳しい訓練を受けることになったことだろう。しかし、そういう人々が絶えてしまったわけではない。今も確実にいる。現在はその呼び名が変わっただけだ。「ひきこもり」「心の病」「アダルトチルドレン」等々。無気力は文字通りに「気」が、あるいは「心のエネルギー」が枯渇している状態なのである。 こういう人々がいる一方で、ものすごい熱狂と興奮に生きようとする人達もいる。三無主義などという言葉がはやった時期の少し前の時代は、大学紛争がたけなわの時代であった。角棒を持って大学で殴り合いをしていた時代があったのである。私は大学生時代、授業がしばしば革命を叫ぶヘルメット学生達の乱入で中止になったし、時には授業中に、校舎の間の中庭で、そのヘルメット学生たちが角棒で殴り合いをしているのを目撃した。入試は機動隊に守られて受験したし、校舎は革命を叫ぶ汚ない落書きだらけだった。しかし、学校の廊下を歩けるようになったのは良かったのだそうで、それまでは机とイスとがバリケードとしてあちこちにうず高く積まれていたという。そういう名残の多々残る中で、私は青春を過ごした。 実際、あんな破壊的なエネルギーがどこから出て来るのかが奇異に思われた。社会変革というわりには、そういうことを言うグループ内には内乱が多く、互いに殺し合うところまでいったことも何度か報道された。極端な行為に走る人々は、互いの交わりにまで極端に走るような気がしていた。私は熱意をもって生きたいと思っていたが、この人々の熱意は違う方向に行っているように思い、参加するのを思いとどまっていた。デモに出掛けるかどうかは、そのころの良心的な学生にとっては、自分への大切な問いかけであったのである。 私はそういう中で、無気力と興奮というものは両極端ではなく、互いに深くつながったもので、一つのものの裏と表との関係ではないかと思うようになっていった。最近でも猟奇的な殺人をする人が、自宅にビデオや本をため込んで、ふだんは内向的でおとなしい感じであったのが突然カッとして暴力的行為に走るなどということがいくつか報道されていた。無気力というのは、自分のやりたいことと社会が求めているものとが一致しないので、ある種やる気が無くなった状態であり、暴走の興奮というのはその内なる不満の一気の爆発のように思う。最近は医学的にも「パニック症候群」などということが言われている。道を歩いていても突然恐れに満たされて立ちすくんだり、電車に乗れなかったりする人もいるという。脳内で何かホルモンの異常が起こっているという人もいれば、社会にあふれすぎている電磁波の脳への影響だと言う人もいる。いろんな物理的な事情も考えられるとは思うが、私はこの興奮と無気力とを行ったり来たりするような生き方の基本に「霊的なこと」に対する誤った見方、あるいは無視があるように思う。 聖書が素晴らしいのは、聖書を学ぶと、私たちが何のために生きているのか、どう生きればよいのかという答えをきちんと出せることである。各人各様に、その個性が一人一人神によってそれぞれ別々につくられていることが分かる。そして、神がそれを引き出してくださるとともに、それぞれの人に神は一歩一歩導きも与える。私たちはその神の賜物を導きとして喜んで生きられるようになる。そして、もうそこには、無気力や無感動に留まる理由がなくなる。もし一人の人に、キリストの霊の働きに触れようとする気力が残っており、罪を赦し新しくしてくれるという神の招きに応答するだけの誠実さが残っているなら、その人の信仰を神は祝福し、神の導きは力強く始まる。 高揚して歌うロックミュージックに熱中している若者を近くで見て時々気づくのは、彼らがインド風のものやインディアンのお守りのようなものを、首からぶら下げていることである。何かの力を求めているのだろう。彼らはドラッグを用いてさらに高揚することすら容認する。それが体を触もうとも。また、社会には、いつも |